藤原純友の乱と日振島の財宝伝説 blog

天慶年代 東の平将門の乱とほぼ同時期 時の律令国家に反逆し瀬戸内海・豊後水道で乱を起こした藤原純友の歴史とその財宝伝説を研究しています。最近、藤原純友の根拠地といわれた愛媛県宇和島市沖合いに浮かぶ日振島で新たにいろいろなことがわかってきました。純友の歴史研究をたどりながら、純友の財宝伝説に迫っていきます。

伝承化する純友将門共謀説

>「将門純友東西軍記」によると、偶然京都で出会った将門と純友が、承平六年(936年)八月十九日に比叡山へ登って、平安城を見下ろしながら、「将門は王孫なれば帝王となるべし、純友は藤原氏なれば関白にならん」と約束し、双方が国に帰って反乱を起こした とある。

 純友将門共謀説について記載されている史料で最も年代が遅いものにこの将門純友東西軍記がある。

「将門純 友東西軍記」は、天慶の乱平将門の乱藤原純友の乱)の顛末(てんまつ)が書かれた軍記物であり、「群書解題(ぐんしょかいだい)」十三によると、その作者・成立年代は明らかでないが、寛文五年(1665年)の書写識語(しょしゃしきご)(書写に際しての来歴・年月などの加筆)が存在し江戸時代までは至らず、室町時代の成立ではないかと考えられているという。

 これより遅くとも室町時代には、天慶の乱において 平将門桓武(かんむ)天皇の後裔(こうえい)であることより「帝王」に、藤原純友藤原氏であるから「関白」になろうと互いが約束し合い、共同で反乱を起こしたと考えられていたことが推測される。

 次に、十四世紀前半には、北畠親房(きたばたけちかふさ)が南朝の正統性を主張し天皇の歴史を書いた「神皇正統記(じんのうしょうとうき)」で、「藤原の純友といふ者、彼の将門に同意し、西国にて反乱せしをば」、「むかしの将門は、比叡山に登りて、大内を遠望し謀反を思ひ企てける」と書かれ、「平親王」と自称し皇位を奪取しようとした将門に視点を絞り、純友は「将門に同意して」と書かれているように将門に従った人物として描写されている。

 このような記載に注意をはらうと、「将門純友東西軍記」の将門と純友が比叡山に登り平安京を眼下に見て互いが反乱を誓い合うとした部分は、「神皇正統記」の記述を史料として参考にし、創作していった可能性が高いものと考えられている。

 

 次に、「将門は帝王」「純友は関白」と約束し合った部分は「大鏡(おおかがみ)」の第四巻の以下の記事が注視される。

この純友は、将門同心に語らいて、、おそろしき事企てたるものなり、将門は「帝をうちとり奉(たてまつ)らん」と言い、純友は「関白にならん」と、同じく心を合わせて、「この世界に割れと政事(まつりごと)をし、君となりてすぎん」といふことを契(ちぎり)あい・・・、

と書かれており、「将門は帝王」「純友は関白」と約束したとの物語を早々に創作したのは「大鏡」であったようだ。

 「大鏡」の成立時期はおおよそ十二世紀初頭あたりと考えられており、遅くともこの時期には将門・純友両人が「将門は帝王」「純友は関白」と約束し合っていたと考えられているようだ。

 さて、問題の将門と純友が本当に比叡山に登り平安京を眼下に見下ろし反乱を約束したのか? という点だが、「将門純友東西軍記」によると、将門と純友が比叡山に登ったのが承平六年八月十九日とこととしている。しかし、この時に将門は坂東に帰っており、純友は伊予国に派遣されており、両人とも平安京にはいなかったことがわかっているので、純友と将門が比叡山に登り反乱の約束をしたということは事実ではなかったようだ。

 ただし、将門も純友も過去に時の権力の頂点に立つ藤原忠平の家人として仕えていた経歴があり、お互いが既知の仲であったという可能性はあると思われる。こうしたことから、比叡山に登って反乱を誓い合ったことは事実でないにしても、なんらかの提携を過去にしていたことがあったのではないかということも考えられないことはないだろう。

 また、当時の京の貴族たちは、本朝世紀天慶二年十二月二十九日条において 「純友・将門 謀(はかりごと)を合わせ、心を通わせ、此の事を行うに似たり」 の記載から、当時の貴族らが、平将門藤原純友の二人は連絡を取り合って東西で同時反乱を起こしたのではないか?と 考えていたことがわかる。

 以上のように、これまで挙げた史料を総合しながらまとめていくと、純友将門の共謀説は、比叡山の誓いは劇的な創作であり事実ではないが、お互いが既知の存在であった可能性はある。そうして可能性としては低いが二人の間に過去に腐敗して行き詰る律令国家に対する改革の思いから、何らかの接触が二人とも在京していた時期にあったのかもしれない。

 しかしその一方で、現実的には 純友が将門と最初から乱を起こすつもりであったのであれば、将門が東国の国府を次々に攻め落としていった時期に行動を起こしていくはずなのだが、その時期の純友は伊予国から移動しようとはしなかった。これより将門と純友が事前に共謀して乱を起こそうとしていたとは考えにくということがいえるだろう。

 将門純友共謀説は、こうした状況のもとに乱がはじまり、そうして終結した後からも、さまざまな憶測を呼び返し、比叡山の誓いのような実にドラマティックな伝説へと熟成されてゆき、永遠の物語として人々を魅了していくのだ。

 

比叡山の誓い 純友将門共謀説

 今回から、天慶の乱平将門の乱藤原純友の乱)から生まれた、古代日本史の律令政府最大の危機の中、最も劇的な場面として伝説化し語り継げられてきた、純友将門共謀説についてお話します。

 平将門の乱において、将門が明確に律令国家に対して叛逆の姿勢を出したのは、天慶二年(939年)の十一月二十一日の常陸国府合戦からであり、その報告は十二月二日に風雲急を告げ京都に届いたとある。(日本紀略

 さらに十二月十一日と十五日に下野(しもつけ)・上野(こうずけ)を次々と陥落させており、二十日過ぎにはその情報が相次いで京に報告され、急に雷鳴の轟く暗雲が広がるように京都の貴族たちに将門叛逆の真相が明らかになり、宮中が大騒ぎに陥ったことは想像にかたくない。

 そして二十九日には、殿上で左大臣藤原仲平以下の諸卿が集まり、信濃に退避した下野・上野の国司の報告をもとにして、さまざまな対応策を協議している。

 しかし、この三日前の二十六日には藤原純友の配下の藤原文元らが摂津国須岐駅付近で備前介藤原子高の一行を襲撃しており、二十九日の殿上会議ではこの東西の同時反乱について議論され、東西へそれぞれ警固使が任用されている。ここにおいて宮中が東西の兵乱への恐れから大混乱に陥ったことも想像にかたくないのです。

 さて、この二十九日の殿上会議について記録された「本朝世紀」にはこう記されている。

 

 純友・将門 謀(はかりごと)を合わせ、心を通わせ、此の事を行うに似たり」 とある。

 

 「本朝世紀」は、十二世紀中期に藤原道憲(みちのり)が編集した史書であるが、外記(げき)日記(政府の公的な記録)を主たる取材源としており、六国史と同様、素材を年月日順に配列している。これよりその信憑性が高く、将門と純友は事件の勃発当初より連携して始められたものではないか?と疑いの目でみられていたことがわかる。

そうして十二世紀に成立した「大鏡」によると、将門が天皇になり、純友が関白になろうという盟約が双方より交わされて、東西で謀反を起こしたと記されており、十四世紀の「神皇正統記」も、東西同意の反乱と記されている。さらに、室町時代の「将門純友東西軍記」に至ると、偶然京都で出会った将門と純友が、承平六年(936年)八月十九日に比叡山へ登って、平安城を見下ろしながら、「将門は王孫なれば帝王となるべし、純友は藤原氏なれば関白にならん」と約束し、双方が国に帰って反乱を起こした、となりより具体的なストーリになってきている。今日では両者がその相談したという場所も定められているし、関東には純友の使者が上ったという川岸までもあるという。

 これら諸本の記述や伝承をそれぞれ順に見渡すと純友将門共謀説は、疑惑から段々と確信的な記述へと変換しており、これらの伝承の世界でしだいに具体的な形に育て上げられたことがうかがえる。

 しかし、一方で、こうした共謀説については、平将門を語る「将門記」には一切触れられていないのだ。

 このことから、純友と将門の共謀説はおおむね否定できるだろう。

 そうすると共謀でないのなら、この二つの乱は全くの偶然の出来事なのだろうか? 

 そのような観点から考えていくと、「大鏡」より早く、遅くとも十一世紀なかばには成立していた、「純友追討記」に「純友は遥かに将門謀反の由を聞き、また乱逆を企て、暫く上道せんとす」と記されていることが、もっとも正確に事実と伝えていると福田豊彦氏は鋭い指摘をしている。

 というのも、純友は配下に前山城 掾 藤原三辰 などを従えており、都の中にもその時すでに広く情報網を持っていたものと考えられ、これより十二月早々に入った将門謀反の報道をいち早く瀬戸内海の情報伝達網より純友はつかんでいたものと考えられ、反乱の決断のタイミングを見計らうことができたと考えられるのだ。さらに将門によって追放された上野介藤原良範は純友の叔父でもあるのだ。

 このような状況証拠から推測すると、純友は将門の乱を相当計画的に利用し水面下で動いていたことがうかがえる。

 次回はさらに深くこの共謀説の真偽について、松原弘宣氏の研究をもとに結論を述べてみたい。

 

釜島・櫃石島(ひついしじま)の財宝伝説は純友のもの?

 前回、楽音寺縁起の物語が史実を記載したものではないことは、特に登場人物の藤原倫実という人物の存在が史実としてなく、さらに純友自身が備前釜島で表舞台に立って戦闘し、そこで死去したことが事実でないということから、この縁起が創作された物語であると考えられていることからわかるのである。そうすると、この釜島・櫃石島での純友財宝伝説は、どうして伝承として残ったのだろう?

 たしかに物語としては、史実と異なる。しかし、純友の乱の経過を追っていくと、備前国釜島で純友軍と政府軍の戦闘が行われたという記載については、検証する必要があるだろう。

というのも、天慶三年八月十八日に賊船四百艘が伊予・讃岐を襲撃したとの報告が史実として残されており、、さらに二十八日には備前備後国の兵船百艘が純友軍によって焼かれるとの記事が残っており、備前で政府軍と純友軍の戦闘が起こっていた可能性が高く、安芸国沼田郡の地方豪族などが、政府軍として集められ、純友軍と戦闘したということは可能性として考えられるだろう。

 こうした純友軍とは、純友側にいた武装集団の総称を指しており、必ずしもそこに純友本人がいたかどうかは不明であるが、直接軍事行動を指揮したとは断定できないが、間接的に戦闘に関与していたことは以後の各地での戦闘の流れからして間違いないだろうと考えられている。

 一方、純友軍の構成には松原氏などの研究により、承平六年に純友が伊予国の海賊追捕に向かう時に畿内より組織編制されたグループと、伊予国豊後水道を中心とする西瀬戸内海の海賊集団のグループという二つの集団より構成されていたものと考えられており、天慶三年八月以降の純友軍の二つのグループの動きを追うと、伊予・讃岐・阿波・紀伊で戦闘するグループと十月以降の安芸・周防・土佐で戦闘するグループに分かれている。純友本人は、後者のグループと行動を共にしていたと考えられる。

つまり、この釜島を中心とする備讃瀬戸での戦闘は、純友軍の中でも特にその側近的位置にいた 藤原文元 を中心とする純友軍の戦闘であったということが考えられるのである。

 そうして、下向井氏らの論考によると、純友が備前国釜島を拠点とする、備前国の海賊として描かれている楽音寺縁起で、登場する 純 友 を 文 元 に置き換えてみると、史実とは異なる荒唐無稽(こうとうむけい)な楽音寺縁起の物語が、史実の戦闘の流れによく似てくることになるのである。

 そうしてこの純友が文元に置き換わったいった理由を、下向井氏は最終的に純友を討ちとったとする藤原倫実(安芸国沼田郡の沼田氏の祖先?)が楽音寺の落慶供養にあたって建立の趣旨を述べるなどの仏事に際して、権威の象徴として 純友を討ったという勲功経験をもとにしているのではないかとも推論されている。

 こうしたことから、釜島・櫃石島での純友財宝伝説も、もともとは藤原文元や畿内の海賊が釜島・櫃石島に財宝を隠しているという伝承が、楽音寺縁起などの物語の伝承などを通して、徐々に文元から純友に置き換わってきたのではないだろうか?

 一方、埋蔵金学の立場から釜島・櫃石島に純友が財宝を隠したか?ということを検証してみても、歴史的史実から戦闘の流れを追っていくと、天慶三年八月以降、すでに東の平将門の乱が終結し、政府は将門の乱の鎮圧に向かわせていた征討軍を続々と瀬戸内海の鎮圧に転用し、差し向けつつある段階において、当然純友もそうした状況を把握していたであろうし、戦闘のあった後の釜島あるいはその付近に戦利品の財宝を隠し再び回収にこれるとは常識的に考えて無理であるはずだ。おそらく、以前から釜島・櫃石島を拠点として用いていた海賊集団 あるいは藤原文元の資産等が隠されているとのうわさや伝承が、こうした楽音寺縁起などの経過から純友に置き換わったものと考えられる。

 以上のことから、釜島・櫃石島における純友の財宝伝説は、純友の財宝というよりは、備讃瀬戸を中心とする海賊の財宝として地域の歴史を追って考えていくほうが、探究しやすいのではないだろうか。

 これより、こうした藤原純友の乱の経過を見ていくと、どうしても 純友の財宝 といわれるものは、最終的に 日振島 に焦点を持って来ざるを得なくなる。

やはり・・・・・純友の財宝は 日振島に・・・持ち込まれた?

 藤原純友財宝伝説のすべての謎は、日振島に今も静かに眠っているのかもしれない。

 

「予章記」・「楽音寺縁起」にある備前釜島の純友

 「予章記」とは、中世伊予国(現愛媛県)の中予・東予を中心とした在地支配の豪族 河野氏 の由来や来歴を記録した家譜(一家の系譜を書き記した書物)で、十五世紀に河野氏により作られたものと考えられおり、ここの記載において、河野氏が古代の越智一族の系譜につながっており、古代から国家の重大問題に越智氏として活動した例として、藤原純友の乱の鎮圧への参加を記録している。

  現存する「予章記」のうちで最も古い形をとどめており、原本に近い写本として知られている「上蔵院本予章記」の記載によると、天慶二年の純友の乱に際し、伊予国の豪族 越智氏(越智好方)に純友追討の宣旨が出された。宣旨をうけた越智好方は「新居大島」(愛媛県新居浜市の大島)に何らかの理由で処罰され流されていた「村上ト云大剛ノ者」を「海上ノ働キ一人当千ノ者」であるとして追討軍に参加する勅許を得て、また「奴田新藤次忠勝」を武将に加え、中・四国から集めた兵士を率いて三百余艘で九州へ向かい純友軍と戦闘し純友の首をはねたとしている。

 

 一方、鎌倉時代末までに原型ができあがり、その後に加筆を繰り返され慶長年間以降に完成したと思われる「予陽河野家譜」においては、越智好方と二男の好峰が「備前籠島」へ出陣して戦闘し、被官の立場であった「奴田新藤次忠勝」が純友の首を取った」と記載されており、戦闘の場所が九州ではなく、備前籠島(釜島)となっている。

  しかし、釜島の方の記事は純友が博多津で小野好古と戦ったのが天慶四年五月で、純友軍が博多津で敗戦し同年六月に伊予のどこかに戻ってきた純友を討ったのは橘遠保であることから史実とは違っているので、何時かの時期に創作されている物語であることがわかる。

  さて、この物語に書かれている 越智氏が「奴田新藤次忠勝」を部下にして、博多津かまたは、備前釜島で戦闘し純友を討ったという伝承で、備前釜島の方を取り上げて検証してみる。

 まず越智氏の部下であるという「奴田新藤次忠勝」という名前から、この氏族は安芸国沼田郡の郡領氏族奴田氏が該当するものと考えられている。この奴田氏と純友の関係を検討するときに、注目される史料が「楽音寺縁起」の存在である。

 

 楽音寺縁起は、広島県豊田郡本郷町にある真言宗の古刹(こさつ)(古い由緒のある寺。古寺。)であり、古代安芸国沼田郡の郡領氏族沼田氏の氏寺と考えられている。その寺には六枚の絵と詞書(ことばがき)(絵巻物で、絵の前後にある説明文。)が交互に書き連ねられた「楽音寺縁起」があり、建立の由来が記載されているという。

 詞書の概略は以下の通りである。

 朱雀天皇の時代、藤原純友平将門と共謀して反乱を起こし、純友は備前国釜島に城郭を建て、四国・九州から京へ運搬されている年貢を略奪した。

そこで、安芸国に配流されていた藤原倫実(ふじわらのともざね)に純友追討の勅宣が下され、藤原倫実は、固辞せず数万の官軍を率いて備前国釜島へ出陣し戦闘したが、純友軍に敗退した。その際、髪の中に納めていた一寸二分の薬師像に助かれば寺を建造しその薬師像を安置すると念じたところ、窮地から脱出することができて、入京し敗戦の報告をした。そして再び純友追討の命令をうけ、藤原倫実は、淀津と川尻で大小の舟を集めて、出撃し、その舟に枯草を積み上げ、それに火をつけて釜島に突入させた。この火攻めと同時に陸上より矢を放つことで純友軍を壊滅に追いやり、純友の首を天皇に献上したという。これらの功績によって藤原倫実は、左馬允(さまじょう)に任命されさらに「安芸沼田七郷」を賜った。これより、先の誓約により寺を建造し一寸二分の薬師像を安置したという。

  このようにこの伝承が史実を記載したものではないことは、特に登場人物の藤原倫実という人物の存在が史実としてなく、さらに純友自身が備前釜島で表舞台に立って戦闘し、そこで死去したことが事実でないということから、この縁起が創作された物語であると考えられている。

 

では、なぜ実際に備前釜島とその周辺にある櫃石島に純友の財宝伝説が現れ、残ったのだろうか?

 

続く

 

藤原純友財宝伝説 釜島・櫃石島(ひついしじま)説

 さて、今回から藤原純友財宝伝説について日振島以外の場所で同じように伝説が残っているところがあるので、その地についての検証を述べていきたい。

 純友の財宝を探す上で、日振島以外の場所の信憑性についてはどうであろうか?

 日振島以外で純友の財宝伝説が残っているのは、東瀬戸内海側の高松市沖合にある女鬼島 と 倉敷市児島半島の先端先にある釜島、左隣の純友神社のある松島を経て、その左隣にある櫃石島(ひついしじま)である。

 まず、香川県高松市沖合にある女木島説については、私の著書 知られざる宇和海 日振島 藤原純友財宝伝説の行方 の中で説明した通りであり、この場では割愛させていただく。

女木島についての説明はこちらを参照ください↓

http://www.city.takamatsu.kagawa.jp/kankou/meisyo/megi.htm

http://treasurejapan.blog102.fc2.com/category7-0.html

櫃石島についての説明はこちらを参照ください。↓

http://imagic.qee.jp/sima3/kagawa/hitsuishijima.html

 櫃石島の純友財宝伝説については、はっきりした史料が見当たりませんので、伝承として純友財宝伝説が残っているという状況にしかないようです。

 次に隣の純友神社がある松島は、釜島の北東にある人口三人?の島です。(岡山県下最小の有人島といわれる) 純友神社の由緒は不明のようだが、十七世紀後半ごろに「前太平記」が書かれて以降に、純友に結び付けられたものと考えられているようで、実際のところ純友に直接関わった神社なのかどうか不明のようです。そこは瓦葺(かわらぶき)の拝殿があり、拝殿内にはセンダイロック(千歳楽)=楽車(だんじり)が安置されているという。中世には、島全体が水軍(海賊衆)の城塞になっていたといわれる。

純友神社についての説明はこちらを参照ください。↓

http://www10.ocn.ne.jp/~veeten/iwakura/kagawa/sumitomo.html

http://www.kurashiki-tabi.jp/blog/?p=622

 次に問題の松島の隣にある釜島ですが、(備前)釜島 現在の倉敷市に属し、児島半島の南端下津井港の沖にある周囲二キロメートルほどの小島です。現在は無人島ですが、過去には小学校・中学校の分校もあったようです。横溝正史の「悪霊島」のモデルになった島ともいわれています。

 さて、この三島の地政学的位置については注意を払う必要があり、この地域は本州・四国との間が最も接近している地域であり、この周辺を押さえるということは、官船が通過を見張れる要所であるということがいえます。

 純友の時代 備讃瀬戸(備前讃岐の瀬戸)の間で東西・南北航路を押さえるという意味で絶好の要害となりえたのでしょう。

 この釜島伝説を中心とする松島の純友神社や櫃石島の純友伝承はどのような理由で存在するようになったのでしょう?

 この三つの島の財宝伝説や純友との関わりからその信憑性を検証する上で、注目されるのが、十七世紀後半に書かれた通俗史書「前太平記」に藤原倫実(ふじわらともざね)なる人物が釜島で純友を討ったという話が出てくるのだが、これは「楽音寺縁起」をもとに創作しなおされたものと考えられている。

 こうしたことから、次回は 「予章記」 と 「楽音寺縁起」の史料を通して、藤原純友の財宝伝説とのかかわりを検証し、その信憑性について結論を述べていきたい。

続く。

 

財宝は日振島に持ち込まれた?

 

 さて、今回から 翌天慶四年からの政府軍の反撃と空白の五か月の問題、純友集団の大宰府への侵入、その目的について述べていく。

天慶三年の純友集団の西への移動の後、年が明けて天慶四年(941年)になるといよいよ政府軍の攻勢が強まってくる。

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「北山抄(ほくざんしょう)」天慶四年1月15日条には 「純友のことを決定するために、御前に所卿を招集した」とあり、ここで純友本人を追討することを政府が決定したと考えられる。

一月二十一日には伊予国より讃岐国で活動していた前山城 掾 の藤原三辰が伊予国で逮捕・処刑されたとの報が入り、その首が京へ届けられる。

二月には讃岐国の海賊を政府軍が撃破、そのまま伊予国へ進軍していく。

二月九日には、讃岐国より「兵庫允宮道忠用(みやみちのただたか)・藤原恒利(つねとし)らが伊予へ向かい、頗る賊類を撃つ」と報告され、二月中に東部瀬戸内海地域が政府軍の支配下に入る。

 先に述べたように、天慶三年六月の純友士卒追捕の決定以降、純友の反政府集団は、 同年八月以降の伊予・讃岐・阿波・紀伊での行動と、同年十月以降の安芸・周防・土佐・大宰府という二つの集団に分かれて活動しており、純友は後者の集団とともに移動していたものと考えられる。

そうして翌年の天慶四年二月中には、政府軍がこの東瀬戸内海側の反政府集団を鎮圧したことがわかる。

この東瀬戸内海の反政府集団を政府が鎮圧したのには、純友集団の中から純友の側近だった藤原恒利(ふじわらのつねとし)が政府に寝返えったことも大きかった。

藤原恒利は主に東瀬戸内海を中心に活動していた海賊と考えられており、海賊集団の隠れ家や海道を熟知していたものと思われ、政府軍の攻勢を有利なものとなる。

その後、五月十九日までの三月・四月には純友関係の記事が見られなくなるのだが、おそらく純友は博多津から大宰府へ進軍して西国・東アジアの交通・交易集団と反撃のための交渉を続けていたのではないかとも考えられている。

ということは、周防鋳銭司を襲撃したのが、天慶三年十一月七日、土佐国幡多郡が襲撃されたのが、十二月十九日 それ以降 天慶四年五月十九日までの純友集団の動きが不明である。三月・四月に純友集団が博多津から大宰府へ進軍していたとすれば、周防鋳銭司襲撃の十一月七日から翌年の三月までの約4ヵ月間、純友集団は一体どこにいたのだろうということが大きくクローズアップされてくる。

 周防鋳銭司から土佐国幡多郡までの間の豊後水道には 日振島 がある。純友集団は冬季の間海が荒れ、容易に敵を寄せ付けない日振島とその周辺に一時潜伏し博多津・大宰府へ向かうための体制を整えていたのではないのか・・・・? 

 ここで現実的な純友集団の移動についてもう一度考えてみたい。

 最大の問題は食料なのだ。純友集団の正確な人数は知れないが、純友追討記に 大宰府の決戦で「官軍、賊船に入りて、火をつけ船を焼く。凶党遂に破れ~取り得る所の賊船八百余艘。矢にあたりて死傷するもの数百人。官軍の威を恐れ海に入る男女あげてかぞうべからず・・・」とある。こうしたことから数百人は純友に同行して移動しているものと考えられる。仮に少なく見積もって百人での移動としても、周防鋳銭司襲撃から大宰府進軍までの約4~5か月分の食料は一日一食としても150日で、約1,5000食必要なのだ。これをどう確保するのか?周防鋳銭司襲撃で貨幣は確保しただろうが、当時の貨幣は最大の物品貨幣であり食料であった 米 との交換に有効ではない。貨幣の信用度も低く、当時の西日本の食料不足からしても、どこも余裕があるとは思えず、食料同士の物々交換ならいざ知らず、貨幣による交換は難しいと考えられる。 そうなると 米 自体をどこかから略奪するしかないということだ。襲撃して略奪するならば、歴史史料上に現れる。 だから土佐国幡多郡の襲撃がそれにあたるのではないか? 土佐国幡多郡の襲撃こそ純友集団の大宰府進撃までの食料確保のための襲撃ではなかったのか? そのためには、周防鋳銭司襲撃後、三崎半島を通過し、豊後水道を経由して土佐国幡多郡へ移動したのではないか? そうしてその間にある日振島に潜伏したのではないのか?

一方

前回記した「純友追討記」によると、天慶三年八月以降の備讃瀬戸を中心にした海賊活動の中心に純友がおり指揮をとっていたと記されている。こうした記述は純友追討記のみに記載されているものであるが、「純友、国府に入り火を放ち焼亡し、公私の財物を取る也」との記載もある。

・・・・純友、公私の財物を取る也・・・・

そうして、日本で古代唯一の貨幣製造所、周防鋳銭司の襲撃・・・・

穀倉地帯土佐国幡多郡の襲撃・・・・

相次ぐ転戦での負傷者は?冬季の防寒の燃料確保は? 空白の五か月間の食料の確保は? 博多津・大宰府へ向かう準備は? 奪った財貨を博多津までかついでいくことなどありえるのか?どこかに保管されたのではないのか?

そして・・・・、

財宝は 日振島とその周辺に 持ち込まれた?

 

藤原純友 (人物叢書)

藤原純友 (人物叢書)

 
日振島 藤原純友財宝伝説の行方―知られざる宇和海

日振島 藤原純友財宝伝説の行方―知られざる宇和海

 

 

 

歴史史料から消えた純友集団、空白の五か月間

さて、今回は 純友の乱の中で非常に注目される 空白の期間について検証していきます。

 天慶三年八月以降、政府と対決する決意をした純友はその配下集団とともに、行動をともにし西瀬戸内海に移動して行ったが、純友集団の動きで非常に注目すべき空白の期間が現れます。

 それが、天慶三年十一月七日の周防鋳銭司襲撃・十二月十九日土佐国幡多郡襲撃以降、翌年の天慶四年五月十九日、小野好古の「賊徒が大宰府内を慮略(りょりゃく)した旨」の報告までの乱の関連記事が消えてしまうことである。

 つまり、この約五か月の間の空白の期間、純友とその集団は一体どこにいたのか?どう移動したのか? が問題となるのである。

 純友集団は天慶三年十一月七日 周防鋳銭司を襲撃し当時、日本で製造されていた貨幣(銅銭)を根こそぎ奪っている。おそらく移動中の資金源にするということと、律令政府の通貨流通を一時的に遮断し、行政機能をマヒさせる目的があったものと考えられる。

 そして、この時代の貨幣というものは、銅銭の鋳造技術も低く精製が不良で、まだその信用性も低く、物資の取引は主に物品貨幣(米や絹、材木資材、陶磁器類、食料、海産物など)による物々交換が主流の時代であったが、銅銭はその携帯性の利便さにより周防鋳銭司のものや渡来銭が物品貨幣の代用としても使われていた。

 そのような貨幣背景のもと、

 まず純友集団の移動において非常に重要なことは、まず東瀬戸内海から政府軍や国衙との戦いでは当然、負傷者も出ていたであろうし、最も重要なことは移動中や潜伏中の純友集団の食料をどうしたのか?ということである。しかも真冬に差し掛かっており燃料などの防寒対策も必要である。

 実は、歴史学会においてもこの歴史史料から消えた純友集団の空白の五か月間の説明が非常に不明確で漠然としている。

 特に純友集団が周防鋳銭司を襲撃してから後の説明がはっきりしていないのだ。

 周防鋳銭司からそのまま大宰府に向かったという見方もあるが、はたしてそうだろうか? 純友にとっては知っている大宰府であっても、純友集団にとって全く見ず知らずの土地であり、しかも東アジア貿易の拠点となっている警備のきびしい大宰府にいきなり出向いていくことが常識的だろうか?

 しかも先にあげたように五か月間の食料の調達もなく、周防鋳銭司で奪った貨幣で食料を調達するとなれば、そこで居場所を知られることになる。けが人の対処はどうする? 西瀬戸内海の反政府勢力の海賊・海民を結集させるにも時間が必要だ。

 歴史史料上に、この空白の五か月間の動向が現れていない以上 こうしたことが、今もまだはっきりと歴史学会では説明できていない。

 だから藤原純友の文献においてもこの空白の五か月間を根拠をもって説明しているところは見当たらない。

 一方、周防鋳銭司が襲撃された後、十二月十九日 土佐国幡多郡が襲撃されていることが唯一歴史史料上残されている。

 この土佐国幡多郡の襲撃に純友の名前が見えないことから、豊後水道側に純友集団は下りてこなかったと考える説もあるが、根拠に乏しいのではないだろうか?

 先に挙げたように純友集団が移動する中で、冬季にさしかかり、どうしても集団の体制を整え、西瀬戸内海の反政府勢力を結集する時間が必要だったはずである。

 その点、大宰府を目指すために年明けの春先の3月ごろまで潜伏するのに日振島は理想的である。日振島とその周辺は古来から歴史上、伊予と豊後をつなぐ情報と物資の架け橋となっており、冬季は海が荒れ容易に敵を寄せ付けない天然の要塞の島なのだ。

 しかも純友の居所が知られては困る。

 そうして、五か月分の食料の確保が必要である。おそらく食料確保のために穀倉地帯の土佐国幡多郡を襲撃したのではないだろうか?

 数回の戦で、奪ってきた財貨もみな大宰府に担いでいくわけにはいかないから、保管隠匿場所も必要だ。

 こうしたことを考えると、はたして周防鋳銭司を襲撃してから、直に大宰府に向かうことが現実的な説と言えるのか?

 おそらく周防鋳銭司襲撃から一旦純友集団の体制を整えるため、三崎半島を南下し、日振島とその周辺に少なくとも年明けの2月ごろまで潜伏し豊後の反政府勢力結集と大宰府侵入と東アジア交易集団との交渉の準備をしていたのではないかと考えるのである。

 こうしたことが、純友集団が日振島とその周辺に乱の最中に奪った財貨を日振島に持ち込んだのではないかと推測する根拠になっているのである。

 また、純友の財宝伝説をめぐっては、伊予の掾の時代に集めたものや、紀淑人と日振島の海賊を争うことなく平定してからの数年間に集めたものなどもあったものと考えられるがその所在も全く不明である。

 紀淑人と組んで伊予国を治めていた数年間、純友は宇和郡の荘園である宇和荘を任されていたのではないかとの見方の文献も近年見受けられ、その時期 日振島は純友にとって宇和郡の物流を監視する拠点になっていたのではないだろうか?

 歴史史料に乏しい純友であるが、近年のこうした状況証拠の積み重ねから、再び日振島の意味について再考していく必要が出てきているものと考える。

続く