藤原純友の乱と日振島の財宝伝説 blog

天慶年代 東の平将門の乱とほぼ同時期 時の律令国家に反逆し瀬戸内海・豊後水道で乱を起こした藤原純友の歴史とその財宝伝説を研究しています。最近、藤原純友の根拠地といわれた愛媛県宇和島市沖合いに浮かぶ日振島で新たにいろいろなことがわかってきました。純友の歴史研究をたどりながら、純友の財宝伝説に迫っていきます。

藤原純友の財宝伝説と日振島

藤原純友の財宝伝説

はじめまして。これから、愛媛県宇和島市沖合いにある日振島を根拠地として、十世紀初頭、瀬戸内海の海賊の首領と呼ばれ時の律令国家に反旗を翻し、暴れまわったという藤原純友の歴史と財宝伝説についてお話していきます。

宇和島市沖合いにある日振島には古くから、藤原純友の莫大な財宝が隠されているという伝説が残っています。

その伝説を示す暗号は、「金壺は七つに分けて七並べ、紫つつじのもとにこそあれ」と言い伝えられていました。

しかし、いくら財宝の伝説があっても、それがこれまで何か根拠のある話だったわけでもないだろうし、証拠など何もない。ただのよた話じゃないか? そう思うのが普通でしょう。

そう考えると、やはり 藤原純友がどんな人で、どんな歴史があったのか?を知っていって、少なくとも財宝が日振島やその周辺にありそうだなと思えるような何か根拠を見つけないと誰も関心を持たないと思うのです。

そこで、今回 なかなかこれまで馴染みの薄かった藤原純友の歴史を追っていって 日振島を中心とした 藤原純友 がどんな人物だったのか?を情報発信し知ってもらいたいと思います。

早くくわしく知りたいという人は、書店やアマゾンで、「知られざる宇和海 日振島 藤原純友財宝伝説の行方」を買って読んでいただければわかります。(笑)

ユーチューブにて 知られざる宇和海 日振島 藤原純友財宝伝説の行方 で検索してもらえれば、この書籍の紹介映像が見られるようにしてありますので、そちらもご参考にしてください。

さて、ここでは、この本に書ききれていなかったことや、この本が出た後に入ってきた新たな情報なども随時ご紹介していければとも思っています。

さて藤原純友ってどんな人? おそらく宇和島の人は ほとんどの人がこの藤原純友のことをよく知らないのではないでしょうか? 何と言っても十世紀初頭ですから、一千年以上も前の歴史の話です。

これまで、というか約30年前までは、藤原純友は時の朝廷に叛逆した海賊の首領というレッテルを張られた反逆者というイメージだったんですね。こうしたことは、約30年くらい前に海音寺潮五郎原作の小説「平将門」をもとにした 平将門藤原純友の乱を合わせた天慶の乱を映画化したNHK大河ドラマ風と雲と虹と」で、定着してしまったようです。

これは、歴史上 純友が最終的に不本意ながら朝廷と敵対することになったので、間違いではないのですが、はたして藤原純友は叛逆者だったのでしょうか? 藤原純友の歴史における実像が見直されてきたのは、この30年程のことで実は藤原純友は、朝廷と対決して戦うことを目的としていたのではなく、全く別の目的を持っていたのではないか?ということが状況証拠から間接的に説明できるようになってきたのです。

そうしてそういう純友の本当の目的を知っていくことが、ひいては日振島とその周辺に財宝が隠されているという話を導いていく根拠になっていくのです。

日本の埋蔵金学の第一人者に過去 畠山清行氏(故人)がいました。この方の名文句に埋蔵金を探すなら 「土を掘るより資料を掘れ」という言葉があります。 やみくもに土を掘っても何もでてはこないのです。 埋蔵金を探し当てたいのならば、その所有者の歴史やその資料を調べてから行きなさいということです。

そりゃそうですよね。でもけっこう埋蔵金堀りをしてきた人ってあちこちやみくもに土を掘るのが好きみたいなんです。トレジャーハンティングというレジャーはそういうところからでてきてるんでしょう。

これより逆に、ここでは、埋蔵金は一つの呼び水として使おうと思います。 埋蔵金を考える上でこれまであまり全国の人に知られてこなかった純友のスケールの大きい歴史を一人でも多くの人に知ってもらいたいとの思いからです。

そうして、この場を通じて全国の歴史ファンの多くの人たちにも宇和島や日振島 その周辺に行ってみたいと思ってもらえるようになればいいなとも思っています。

次回は、まず藤原純友ってどんな人だったの?というところから始めてみたいと思います。

続く

 

藤原純友 (人物叢書)

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日振島 藤原純友財宝伝説の行方―知られざる宇和海

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