藤原純友の乱と日振島の財宝伝説 blog

天慶年代 東の平将門の乱とほぼ同時期 時の律令国家に反逆し瀬戸内海・豊後水道で乱を起こした藤原純友の歴史とその財宝伝説を研究しています。最近、藤原純友の根拠地といわれた愛媛県宇和島市沖合いに浮かぶ日振島で新たにいろいろなことがわかってきました。純友の歴史研究をたどりながら、純友の財宝伝説に迫っていきます。

純友登場 海賊鎮圧のため伊予に向かう

 さて、先の喜多郡不動米略奪事件の約一年後の承平六年三月某日、歴史史料上に初めて藤原純友の名前が現れます。

その記載は、 吏部王記(りほうおうき)の記載で承平六年(936年)三月某日に この日、前伊予掾 藤原純友が、党を聚めて伊予国に向かい、「留連河尻 掠内」 (港の内) 河尻に船を留めるとあります。

 さらに、少し記録の年月が進みますが、本朝世紀(ほんちょうせいき)の記載で天慶二年(939年)十二月二十一日条に 前掾藤原純友、去る承平六年海賊を追捕すべきの由、宣旨(せんじ)を蒙る(こうむる)。以下省略。

とあり、

まず藤原純友本朝世紀の記載により、承平六年に伊予国を中心とした西瀬戸内海の海賊を取り締まる命令を朝廷より受けていることがわかります。

ついで、吏部王記の記載により、

海賊の取り締まりの命令を受けた純友が、いよいよ平安京から伊予へ「諸家兵士」を率いて向かったのです。つまり京を出発して、三国川河口(現尼崎市今福)に位置する「河尻掠内(港の内)に留まって、おそらく伊予でいっしょに仕事をする武装集団の仲間を募っていた模様なのです。

後に述べますが、このとき畿内周辺で集めた武装集団の中に、後の純友の幹部となる 藤原文元 文用兄弟 藤原三辰 三善文公 紀文度 らが存在していました。

ここで、承平年間に活発化した瀬戸内海の海賊活動は、9世紀のような一海域に限った海賊活動ではなくなり、全瀬戸内海に拡大しつつあったことが推測され、律令政府は、純友が伊予国に向かう前後に、後に純友とコンビを組んで伊予国を統治する知事的立場の「守」(かみ)に紀淑人(きのよしと)を任命し、藤原純友伊予国に派遣していることは、瀬戸内海の海賊活動が伊予国を中心に存在していたことを物語っており、政府にとってこの時期の西瀬戸内海の交通・交易圏の海賊活動が最大の問題であったことを推測させます。

西瀬戸内海に問題があるということは、

日本記略(にほんきりゃく)承平六年六月某日条に記載されている 「 南海賊徒の首藤原純友、党を結び、伊予国日振島に屯集し、千余艘を設け、官物私財を抄劫す。紀淑人を以って伊予守に任じ、追捕の事を兼行せしむ。 」

により、伊予国日振島が海賊集団の根拠地のひとつであったことも推測させ、そこから、豊後水道、三崎半島を経て、西瀬戸内海の入り口である 伊予灘周防灘 海域の交通の安全を確保することが目的のひとつであったことをうかがわせるのです。

そうしてその後、純友は伊予国に到着すると、まず問題解決のためか?、日振島に向かいます。

ちなみに当時の伊予国の国府(現在でいう県庁)は、現在の愛媛県今治市周辺付近にあったものと考えられております。しかし、国府に最初常駐するのではなく、さっそく伊予国愛媛県)の南方にある宇和海の日振島(現宇和島市日振島)に出向いて行っているのです。

続く

 

藤原純友 (人物叢書)

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藤原純友の乱

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物語の舞台を歩く 純友追討記

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