東西の反乱
さて、ここで東国坂東の 平将門 の動きも朝廷を驚かし東西の兵乱が始まる。
東国坂東の 平将門は天慶二年(939年)十一月二十一日常陸(ひたち)国府で合戦し国府を占領 その報告は十二月二日には京都に届いている。さらに下野(しもつけ)・上野(こうずけ)国府への侵攻は十二月十一日と十五日で、二十日すぎには、相次いでその情報が京都に入り 京都の貴族たちにも平将門 叛逆 の真相がしだいに明らかになっていった。
常陸国府の占領から一か月後、将門は側近の興世王(おきよおう)の進言にしたがい、自ら新皇(しんのう)を宣言、常陸周辺の坂東を支配し、自分の弟たちを国司に任命し、とうとう独立国家を坂東につくりあげてしまうのである。
二十九日には、京都の公卿が殿上に集結し信濃にのがれた下野・上野の国司からの詳細な報告を受け、驚嘆・動揺するも様々な対策が協議されている。
しかしその一方で、恐るべきことに、この将門叛逆による宮中大混乱の最中に、朝廷は、先の 天慶二年十二月二十六日、純友の配下であった藤原文元らが、摂津国須岐駅で、備前介 藤原子高 と播磨介 島田惟幹 を襲撃したとの報告を受け、さらに瀬戸内海側でも反乱の動きが出始め、危機感を強めた時の律令政府の最高権力者である藤原忠平は、公卿ら主要貴族たちを集めてその対応策を協議しているのだ。
東の将門、西の純友 京を挟み撃ちするかのように、東西から吹き付ける叛逆の風の音が吹き始める。
あまりにもタイミングの良すぎるこの東西の兵乱を純友と将門が共謀して図ったことではないかと恐怖のままに想像する公卿たちは、さぞかし多かったことだろう。
東西の兵乱にどう対応するか?その内容は明らかになっていないが、翌天慶三年正月一日には、小野好古(おのよしふる)を海賊の追捕使(ついぶし)に任命し、十六日には山陽道「追捕凶賊使」として出発させているが、二十日には海賊が備中を襲い、官軍が撤退したとの報告が来る。海賊軍はさらに侵攻し、二月五日には淡路を襲撃し兵器を奪っている。小野好古には、出発した翌月の二月には 二十二日に純友が海路遡上するとの報告も入るが、好古には それ以上前には進むな!などと指令を出し、瀬戸内海の兵乱の処置に対してはまだ慎重な方針を示している。しかしその一方で同日 京都の東町で不穏な放火によるものと思われる火事が起こっている。さらに二十七日には京都西町が焼けている。
これに対し二十三日には、政府は山崎川尻の警護使を決定し、二十五日には藤原慶幸が兵士を率いて山崎の関に向かっているのだが、その翌日にはどういうわけか山崎が焼亡している。おそらく純友の影響下にいる配下のゲリラ活動ではないだろうか?
そこで二十八日に政府は衛府(えふ)と検非違使(けびいし)に京中の夜行警備を命じており、宮城十四門に兵士を配置している。
こうしたことより、この時点においては京都事態が純友の配下の侵攻によりきわめて深刻な危機的状況下に置かれていたことが推測される。
このように ほとんど同時に始まった東西の兵乱は、以後長く 純友と将門の共謀説を伝説化させていく。
十二月二十九日の「本朝世紀」には、純友が将門と「謀(はかりごと)を合わせ、心を通わせ、此の事を行うに似たり」 と記している。将門と純友の事件は勃発した当初より、共謀して起こされていたのではないか?との疑惑の目で見られていることがわかる。
さて、福田豊彦氏は「平 将門の乱」において、「純友追討記」にある記述 「(純友は)遥かに将門謀反の由を聞き、また乱逆を企て、漸く上道せんとす」とある記述が最も正確に事実を伝えていると述べている。
つまり、純友はこの当時、京都の中でも広く情報網を持ち、十二月早々には将門謀反の報道を早々とつかんでいたと思われ、東西の反乱蜂起のタイミングを合わせていたものと考えられている。 将門に追放された上野介藤原良範は純友の叔父なのだ。
「純友が巨海に出ようとしている」との報告が伊予国から来たのが、十二月十七日であるから、将門の反逆の情報が純友の元にも入ってきたため、純友は、いよいよ事を起こすことを決断したものと考えられる。
さて、その後、翌天慶三年一月二十日には摂津須岐駅襲撃事件に関して政府は驚いたことに、藤原子高らを襲撃した張本人の藤原文元らの罪を不問とするばかりか、さらに政府の役人として任官するとしているのである。
そしてこの日には、ちょうど「西国の多数の兵船が備中軍と戦い備中軍が敗走する」との報告が入り、「西国の兵船」と備中軍(政府軍)との戦闘が行われたことがわかる。
なぜ政府は藤原文元を任官しようとしたのか?どうも政府は文元の摂津須岐駅襲撃事件は藤原子高との個人的な私闘の問題として重視せず目をつぶり、それよりも、東国の将門の反乱の対応を重視し、瀬戸内海側の西国の兵船など瀬戸内海側の反乱圧力を抑えるために藤原文元らの軍事力を利用しようとしたようだ。また文元らを政府側に取り込みその軍事力を東の平将門の乱の鎮圧に振り向け利用することを考えていたようだ。
一方、純友と西国の兵船との関係は史料にはっきりとあらわれておらず、不明である。これは、一方で東国の将門の乱に便乗しようとした海賊の独断の行動ではないかとの見方もある。
この時期、まだ純友は明確に政府に対して反乱する行動をとっておらず、政府側との情報戦・心理戦をしていたものと考えられる。純友はジワジワと京都の政府の首をしめるように配下の放火などにより社会不安を醸成させていく。
政府側は、この東西の反乱を鎮圧するのに、兵力を東西に分散したのでは勝ち目はない。そこで、純友の本心・要求をさぐるべく、政府は純友と交渉を始めることになる。
続く