藤原純友の乱と日振島の財宝伝説 blog

天慶年代 東の平将門の乱とほぼ同時期 時の律令国家に反逆し瀬戸内海・豊後水道で乱を起こした藤原純友の歴史とその財宝伝説を研究しています。最近、藤原純友の根拠地といわれた愛媛県宇和島市沖合いに浮かぶ日振島で新たにいろいろなことがわかってきました。純友の歴史研究をたどりながら、純友の財宝伝説に迫っていきます。

藤原純友の乱終結

 さて、天慶四年五月十九日 征南海賊使小野好古より「賊徒が大宰府内を虜掠(りょりゃく)した旨」との報告が京へ届き、「本朝世紀」天慶四年十一月五日条によると「今年五月二十日、大宰府博多津において~小野好古等がために討散を被る」とあり、五月二十日の博多津の戦いで純友集団は敗退したことがわかっている。そうして六月六日には追捕使(ついぶし)は「賊徒を撃破した旨を報告」している。

 天慶四年の五月に入ると、突如 純友集団は大宰府を襲撃、占領する。そして大宰府にある中国・諸外国の海外交易での累代の財宝を奪い、建物に火を放つ。

 しかしその頃には、すでに純友集団の居所を政府軍はつかんでおり、小野好古の軍勢は陸から、藤原慶幸と大蔵春実の軍勢が海から大宰府に迫っており、五月二十日、博多津の決戦があり、海陸両面から激しい戦闘がくりかえされたのである。

 これにより政府軍が勝利し純友集団は四散し、政府軍に捕獲された船は八百余艘、死傷者は数百人におよんだという。その後、博多津の合戦で壊滅的な打撃を受けた純友集団は、態勢を整えることがならず、純友とその部下たちはそれぞれの本拠地に帰らざるをえなかったものと考えられる。

 六月十一日には、備前・備中・淡路などからの報告が京に着き、備前使が「賊二艘、純友等也、響灘より船を脱け遁げる、疑うに入京するか」と報告(されている。

 しかし、その後六月二十日に「純友討殺さる由の解文」が到着し、七月七日には、純友と子息「重太丸」の首が京に届く。また、佐伯是基、桑原生行、三善文公など純友の配下たちも各地で次々に討たれている。

 純友は伊予国に帰ったところを警護使の橘遠保に逮捕され子の重太丸とともに斬られたという。(獄死したとの史料もある)

 こうして藤原純友の乱は鎮圧されたのだが、時の律令政府は 平将門の乱が意外にも一か月で収束してしまったのに対して、藤原純友の乱の鎮圧には 始まりから終結までにおよそ二年あまりの歳月をかけてしまっていることから、純友の乱が西日本全体を巻き込んだ大きな動乱となったことを物語っており、純友自体が西日本全域に大きなカリスマ性をもつ指導者的立場の人物であったことがわかる。

 その一方で武力弾圧による鎮圧に成功した律令政府であったが、その根本的な瀬戸内海での問題がこれにより解決したわけではなく、その後も何百年にわたって同じ問題をかかえつづけることになる。、そして新しい国家の枠組みができるには、この後、さらに源頼朝の時代がくるまで二百数十年の歳月を待たねばならないのだ。

 その歳月は藤原氏の栄華の陰に人民の苦難と苦悩の繰り返しに満ちた「苦しみ」の歴史が無数に積み重ねられているのだ。

次回、純友の最期と逃亡先の謎です。