藤原純友の乱と日振島の財宝伝説 blog

天慶年代 東の平将門の乱とほぼ同時期 時の律令国家に反逆し瀬戸内海・豊後水道で乱を起こした藤原純友の歴史とその財宝伝説を研究しています。最近、藤原純友の根拠地といわれた愛媛県宇和島市沖合いに浮かぶ日振島で新たにいろいろなことがわかってきました。純友の歴史研究をたどりながら、純友の財宝伝説に迫っていきます。

釜島・櫃石島(ひついしじま)の財宝伝説は純友のもの?

 前回、楽音寺縁起の物語が史実を記載したものではないことは、特に登場人物の藤原倫実という人物の存在が史実としてなく、さらに純友自身が備前釜島で表舞台に立って戦闘し、そこで死去したことが事実でないということから、この縁起が創作された物語であると考えられていることからわかるのである。そうすると、この釜島・櫃石島での純友財宝伝説は、どうして伝承として残ったのだろう?

 たしかに物語としては、史実と異なる。しかし、純友の乱の経過を追っていくと、備前国釜島で純友軍と政府軍の戦闘が行われたという記載については、検証する必要があるだろう。

というのも、天慶三年八月十八日に賊船四百艘が伊予・讃岐を襲撃したとの報告が史実として残されており、、さらに二十八日には備前備後国の兵船百艘が純友軍によって焼かれるとの記事が残っており、備前で政府軍と純友軍の戦闘が起こっていた可能性が高く、安芸国沼田郡の地方豪族などが、政府軍として集められ、純友軍と戦闘したということは可能性として考えられるだろう。

 こうした純友軍とは、純友側にいた武装集団の総称を指しており、必ずしもそこに純友本人がいたかどうかは不明であるが、直接軍事行動を指揮したとは断定できないが、間接的に戦闘に関与していたことは以後の各地での戦闘の流れからして間違いないだろうと考えられている。

 一方、純友軍の構成には松原氏などの研究により、承平六年に純友が伊予国の海賊追捕に向かう時に畿内より組織編制されたグループと、伊予国豊後水道を中心とする西瀬戸内海の海賊集団のグループという二つの集団より構成されていたものと考えられており、天慶三年八月以降の純友軍の二つのグループの動きを追うと、伊予・讃岐・阿波・紀伊で戦闘するグループと十月以降の安芸・周防・土佐で戦闘するグループに分かれている。純友本人は、後者のグループと行動を共にしていたと考えられる。

つまり、この釜島を中心とする備讃瀬戸での戦闘は、純友軍の中でも特にその側近的位置にいた 藤原文元 を中心とする純友軍の戦闘であったということが考えられるのである。

 そうして、下向井氏らの論考によると、純友が備前国釜島を拠点とする、備前国の海賊として描かれている楽音寺縁起で、登場する 純 友 を 文 元 に置き換えてみると、史実とは異なる荒唐無稽(こうとうむけい)な楽音寺縁起の物語が、史実の戦闘の流れによく似てくることになるのである。

 そうしてこの純友が文元に置き換わったいった理由を、下向井氏は最終的に純友を討ちとったとする藤原倫実(安芸国沼田郡の沼田氏の祖先?)が楽音寺の落慶供養にあたって建立の趣旨を述べるなどの仏事に際して、権威の象徴として 純友を討ったという勲功経験をもとにしているのではないかとも推論されている。

 こうしたことから、釜島・櫃石島での純友財宝伝説も、もともとは藤原文元や畿内の海賊が釜島・櫃石島に財宝を隠しているという伝承が、楽音寺縁起などの物語の伝承などを通して、徐々に文元から純友に置き換わってきたのではないだろうか?

 一方、埋蔵金学の立場から釜島・櫃石島に純友が財宝を隠したか?ということを検証してみても、歴史的史実から戦闘の流れを追っていくと、天慶三年八月以降、すでに東の平将門の乱が終結し、政府は将門の乱の鎮圧に向かわせていた征討軍を続々と瀬戸内海の鎮圧に転用し、差し向けつつある段階において、当然純友もそうした状況を把握していたであろうし、戦闘のあった後の釜島あるいはその付近に戦利品の財宝を隠し再び回収にこれるとは常識的に考えて無理であるはずだ。おそらく、以前から釜島・櫃石島を拠点として用いていた海賊集団 あるいは藤原文元の資産等が隠されているとのうわさや伝承が、こうした楽音寺縁起などの経過から純友に置き換わったものと考えられる。

 以上のことから、釜島・櫃石島における純友の財宝伝説は、純友の財宝というよりは、備讃瀬戸を中心とする海賊の財宝として地域の歴史を追って考えていくほうが、探究しやすいのではないだろうか。

 これより、こうした藤原純友の乱の経過を見ていくと、どうしても 純友の財宝 といわれるものは、最終的に 日振島 に焦点を持って来ざるを得なくなる。

やはり・・・・・純友の財宝は 日振島に・・・持ち込まれた?

 藤原純友財宝伝説のすべての謎は、日振島に今も静かに眠っているのかもしれない。