藤原純友の乱と日振島の財宝伝説 blog

天慶年代 東の平将門の乱とほぼ同時期 時の律令国家に反逆し瀬戸内海・豊後水道で乱を起こした藤原純友の歴史とその財宝伝説を研究しています。最近、藤原純友の根拠地といわれた愛媛県宇和島市沖合いに浮かぶ日振島で新たにいろいろなことがわかってきました。純友の歴史研究をたどりながら、純友の財宝伝説に迫っていきます。

比叡山の誓い 純友将門共謀説

 今回から、天慶の乱平将門の乱藤原純友の乱)から生まれた、古代日本史の律令政府最大の危機の中、最も劇的な場面として伝説化し語り継げられてきた、純友将門共謀説についてお話します。

 平将門の乱において、将門が明確に律令国家に対して叛逆の姿勢を出したのは、天慶二年(939年)の十一月二十一日の常陸国府合戦からであり、その報告は十二月二日に風雲急を告げ京都に届いたとある。(日本紀略

 さらに十二月十一日と十五日に下野(しもつけ)・上野(こうずけ)を次々と陥落させており、二十日過ぎにはその情報が相次いで京に報告され、急に雷鳴の轟く暗雲が広がるように京都の貴族たちに将門叛逆の真相が明らかになり、宮中が大騒ぎに陥ったことは想像にかたくない。

 そして二十九日には、殿上で左大臣藤原仲平以下の諸卿が集まり、信濃に退避した下野・上野の国司の報告をもとにして、さまざまな対応策を協議している。

 しかし、この三日前の二十六日には藤原純友の配下の藤原文元らが摂津国須岐駅付近で備前介藤原子高の一行を襲撃しており、二十九日の殿上会議ではこの東西の同時反乱について議論され、東西へそれぞれ警固使が任用されている。ここにおいて宮中が東西の兵乱への恐れから大混乱に陥ったことも想像にかたくないのです。

 さて、この二十九日の殿上会議について記録された「本朝世紀」にはこう記されている。

 

 純友・将門 謀(はかりごと)を合わせ、心を通わせ、此の事を行うに似たり」 とある。

 

 「本朝世紀」は、十二世紀中期に藤原道憲(みちのり)が編集した史書であるが、外記(げき)日記(政府の公的な記録)を主たる取材源としており、六国史と同様、素材を年月日順に配列している。これよりその信憑性が高く、将門と純友は事件の勃発当初より連携して始められたものではないか?と疑いの目でみられていたことがわかる。

そうして十二世紀に成立した「大鏡」によると、将門が天皇になり、純友が関白になろうという盟約が双方より交わされて、東西で謀反を起こしたと記されており、十四世紀の「神皇正統記」も、東西同意の反乱と記されている。さらに、室町時代の「将門純友東西軍記」に至ると、偶然京都で出会った将門と純友が、承平六年(936年)八月十九日に比叡山へ登って、平安城を見下ろしながら、「将門は王孫なれば帝王となるべし、純友は藤原氏なれば関白にならん」と約束し、双方が国に帰って反乱を起こした、となりより具体的なストーリになってきている。今日では両者がその相談したという場所も定められているし、関東には純友の使者が上ったという川岸までもあるという。

 これら諸本の記述や伝承をそれぞれ順に見渡すと純友将門共謀説は、疑惑から段々と確信的な記述へと変換しており、これらの伝承の世界でしだいに具体的な形に育て上げられたことがうかがえる。

 しかし、一方で、こうした共謀説については、平将門を語る「将門記」には一切触れられていないのだ。

 このことから、純友と将門の共謀説はおおむね否定できるだろう。

 そうすると共謀でないのなら、この二つの乱は全くの偶然の出来事なのだろうか? 

 そのような観点から考えていくと、「大鏡」より早く、遅くとも十一世紀なかばには成立していた、「純友追討記」に「純友は遥かに将門謀反の由を聞き、また乱逆を企て、暫く上道せんとす」と記されていることが、もっとも正確に事実と伝えていると福田豊彦氏は鋭い指摘をしている。

 というのも、純友は配下に前山城 掾 藤原三辰 などを従えており、都の中にもその時すでに広く情報網を持っていたものと考えられ、これより十二月早々に入った将門謀反の報道をいち早く瀬戸内海の情報伝達網より純友はつかんでいたものと考えられ、反乱の決断のタイミングを見計らうことができたと考えられるのだ。さらに将門によって追放された上野介藤原良範は純友の叔父でもあるのだ。

 このような状況証拠から推測すると、純友は将門の乱を相当計画的に利用し水面下で動いていたことがうかがえる。

 次回はさらに深くこの共謀説の真偽について、松原弘宣氏の研究をもとに結論を述べてみたい。