緊迫する情報戦と、瀬戸内海の反乱
ほぼ、同時期に勃発した東西の兵乱。律令政府はまず、風雲急を告げている、平 将門 の乱への対応を急ぐことになる。
そうして平 将門 討伐のための征討軍を坂東へと向かわせる準備を加速させるが、京の背後からは、ザワザワと忍び寄る海賊の気配がヒシヒシと朝廷に感じられたことだろう。背中にゾクリとするような殺気を感じながらのこの時期の夜は貴族たちにとってまさに恐怖の日々であったはずだ。
もちろん、朝廷は瀬戸内海の海賊の反乱の背後に純友がいることは十分承知していただろう。しかし、坂東へ征討軍を向かわせている間に背後から瀬戸内海の海賊襲われたのでは、朝廷はひとたまりもない。そこで、瀬戸内海の海賊を背後から指揮している純友の本心・要求をさぐるべく、政府は純友と交渉を始めることになる。
伊予国から純友を京に召喚(呼び戻して)ほしいとの申請があり、天慶二年十二月二十一日に、政府は純友の甥の藤原明方らを伊予国へ事情聴取のために伊予国衙と純友の両方へ派遣しており、天慶三年二月三日には、明方らが伊予国の解状と純友の申文をもって帰京している。明方はそれぞれの事情を聞いてきたのだ。そして同日の二月三日、純友に授けられる従五位下の位記が蜷淵有相(になぶちありすけ)に託されている。この従五位下の位記とは、これ以上が貴族ということである。つまり純友をこれから貴族の一員として受け入れるということである。
ここで問題になる 伊予国の解状と純友の申文の内容が 藤原純友の乱の核心を語る内容であったことはまちがいない。しかし、その内容を示す原文や史料がまったく残存しておらず、その内容は闇の中に消えたままである。
これが実におしい。この内容を語る原本、もしくは史料が見つかれば 藤原純友の乱の体系を完成させることのできる大きな歴史的発見となるのだが。
さて、翌天慶三年二月四日には、追捕に山陽道に出ている小野好古に進軍を一時停止せよとの命令が下されている。
一旦それ以上前に進むな!と指示していることから、瀬戸内海の海賊鎮圧を止め、一旦静観しろと言っているのだ。こうした決定は、藤原明方の報告によっているものと思われる。
このことは、この段階では まだ純友は律令政府・藤原忠平に対し明確な叛乱をするという意思は持っておらず、その一方 律令政府・藤原忠平側も純友に対して軍事的な対抗をしようとはしていなかったことを物語っている。
しかしその一方で、翌天慶三年二月五日には、淡路国より賊徒が襲撃し兵器が奪われた との趣旨の報告が政府に到着していることや、二十二日には 小野好古から「純友、船に乗り、海に浮かび槽上す」と報告が来ていることより、瀬戸内海の海賊の反乱がふたたび散見されるようになり、純友の行動にも不確定な動きが出ている。こうしたことから純友が全瀬戸内海の海賊を統括して政府の恐怖心理をジリジリと揺さぶっている様子が推測される。
ところが、東の将門の乱は意外なほどあっけなく終わりを告げることとなった。 政府側には、二月二十五日 東国の 平将門 が藤原秀郷(ふじわらのひでさと)・平貞盛らによって二月十四日北山の決戦で将門が壮絶な最期を遂げたとの報告が入ってきたのだ。東西の兵乱はここが大きな分岐点となってしまう。将門戦死により、東西の兵乱による国家的危機は乗り切れたということがいえよう。
一方、三月二日になると、純友のもとに派遣していた蜷淵有相より 純友が喜んで位記を受け取ったとの報告と伊予国の解文が政府に到着し、純友に対する処置はここで一旦収まった形になっているのだが・・・。 はたして純友は、この従五位下の位記を本当に喜んだのだろうか?
ところが、三月四日になると政府のほうから追捕南海凶賊使の任命が行われ将門討伐の知らせに東の乱の終結を機会に西に兵力を持ってこれるようになった政府はにわかに西の乱の鎮圧に意欲を出してくる。六月十八日には、殿上で純友の暴悪な士卒(配下)の追捕のことが議定され、純友の士卒を追捕すべしという官符が発せられた(貞信公記抄)
そうするとこの政府の対応は、純友への懐柔策と反対の対応となっている。
二月に純友に位階を与えて以降、四月十日に山陽道(兵庫から下関あたりまでの瀬戸内海沿岸)(追捕凶賊使小野好古)で凶賊が発生したという疑いの報告が政府に到着程度の小規模な騒動はあるものの瀬戸内海での海賊の反乱は一応沈静化している。少なくとも史料上にはこれといった大規模な反乱の動きは見当たらない。
六月十八日の追捕の官符は直接純友を目標とせず、純友士卒の追捕令になっている。
つまりこの時点では、純友はまだ政府側の人間であるということがわかるのだ。
だが、ここで福田豊彦氏は重大な指摘を残している。
政府が純友の士卒(配下)に追捕令を出したらならば、純友はだまっていないと予想されるということがそうだ。
ということは、この段階にきて政府は、純友に対し、政府につくのか?海賊側につくのか? その踏絵をつきつけ、回答を迫ったということになると述べられているのだ。
政府は、平将門の乱が終結し政府軍有利になったこの段階において、純友が政府側につくものと考えていたのだろう。
しかし、純友は決起してしまったのだ。
それは純友が配下を思いやるやさしさからくるものなのか? 純友は無謀とも思える賭けに自らの運命をゆだねてしまう。
純友は本朝世紀天慶二年十二月二十一日条の「純友、髄兵を率い巨海へ出んと欲す」の記載どおり、いよいよ巨海へと向かい始めるのだ。
続く