藤原純友の乱と日振島の財宝伝説 blog

天慶年代 東の平将門の乱とほぼ同時期 時の律令国家に反逆し瀬戸内海・豊後水道で乱を起こした藤原純友の歴史とその財宝伝説を研究しています。最近、藤原純友の根拠地といわれた愛媛県宇和島市沖合いに浮かぶ日振島で新たにいろいろなことがわかってきました。純友の歴史研究をたどりながら、純友の財宝伝説に迫っていきます。

藤原純友の乱、始まる

>純友は決起してしまったのだ。そして純友は政府と対決しながら、当初の目的であった 「巨海」 へと向かい始める。

 さて、天慶三年(940年)六月十八日には、政府で純友暴悪士卒(純友の部下たちを指す)への対策が検討され、同十九日に「純友士卒を追捕」との趣旨の草案が作成される。つまり純友の部下たちを政府は海賊と認定し、全面対決することを決定したのである。 こうした決定がなされた背景で、決定的だったのは 関東で平将門の乱が終結し東西から政府が挟み撃ちになる危機がなくなったことによるのである。

そうして、先に述べたとおり、八月以降 政府軍と純友集団の全面対決が勃発する。史実の流れからいうと藤原純友の乱は、ここからが藤原純友の乱の始まりといわれている。

 純友は、政府が約束を反故にし、長らく純友と苦楽を共にしてきた瀬戸内海の純友の士卒(配下)たちを無差別に弾圧し始めたことに我慢ならなかったのだろう。

 八月十五日前後に賊船四百艘が伊予・讃岐を襲撃。 八月二十八日には、備前・備後の兵船百艘が襲撃される。八月二十九日には紀伊国から海賊の活動が報告されている。

 このように八月に入ると、東部瀬戸内海全域で政府軍と海賊との間で戦闘が繰り広げられるにいたった。そうしてその後、政府軍と海賊は戦闘は徐々に西瀬戸内海側へと移動していくことになる。

 「純友追討記」によると、八月以降の備讃瀬戸を中心にした海賊活動の中心に純友がおり直接指揮をとっていたと記されている。こうした記述は純友追討記のみに記載されているものであるが、「純友、国府に入り火を放ち焼亡し、公私の財物を取る也」とあり、実際に表舞台に躍り出て指揮をとっていたかどうか断定することは難しいが、以後の西瀬戸内海→大宰府への移動経路を考えると、純友が間接的にここで関与していたことは間違いないだろう。

 その後の展開は、東瀬戸内海での戦闘が徐々に西瀬戸内海へと移動していくことになる。十月二十二日に安芸・周防より大宰府追捕使左衛門尉在原相安(ありわらのすけやす)らの兵が賊徒に襲撃を受け敗れた(日本記略)との報告が政府にあり、十一月七日には、周防国より周防鋳銭司(通貨の製造所を指す)が焼かれたと報告される。(日本記略)。十二月十九日には、土佐国より幡多郡(はたぐん)が海賊に襲撃されこれと合戦して多数の死者がでたことが報告される。こうした西瀬戸内海側への移動の過程の中に純友本人がいたと考えられている。

 そうして、翌年の天慶四年一月十五日の「北山抄(ほくざんしょう)」には、「純友のことを決定するために、御前に諸卿を招集した」とあり、この時政府は最終的に純友本人を追討することを決定したようだ。

 そうして、ここで純友集団の動向を見ていくと、興味深いことがわかってくる。

まず、純友集団の活動範囲はは東瀬戸内海側の紀伊・摂津から西の大宰府・日向・土佐幡多郡というふうに瀬戸内海・豊後水道全域に拡大している。

 これより、純友は瀬戸内海・豊後水道全域の海民・海賊を結集させることのできるカリスマ的実力者であったことが推測できるだろう。

 天慶三年八月以前は伊予国より東側の瀬戸内海での活動であったが、以後 西瀬戸内海・豊後水道大宰府というように西へ移動している。

 純友の所在が確実にはわかりにくいが、天慶三年六月の純友士卒追捕の決定以降、同年八月以降の伊予・讃岐・阿波・紀伊での行動と、同年十月以降の安芸・周防・土佐・大宰府という二つの集団に分かれて活動しており、純友は後者の集団とともに移動していたものと考えられる。

 つまり 純友集団の移動コースは豊後・日向へ向かう集団と、備前から播磨、但馬へ向かう集団に分かれているのである。

 こうしたことは、純友集団が畿内より組織形成され伊予へ純友といっしょに行った畿内周辺の中・下級官人出身者の集団と豊後水道を中心にした西瀬戸内海の海賊集団より構成されているものと考えられている。

 そうして最終的に純友が大宰府に向かったことは、西瀬戸内海側の海民・海賊の支持を受ける共同利益が何であったかを暗示していることになる。

 その共同利益こそ、純友巨海へ出んと欲す の、東アジア貿易参入と瀬戸内海流通の民間開放ということなのではないだろうか。

 こうして純友はその配下集団とともに、行動をともにするが、歴史史料上、注目すべき空白の期間が現れる。

 それが、天慶三年十一月七日の周防鋳銭司襲撃・十二月十九日土佐国幡多郡襲撃以降、翌年の天慶四年五月十九日、小野好古の「賊徒が大宰府内を慮略(りょりゃく)した旨」の報告まで乱の関連記事が消えてしまうことである。

 つまり、この約五か月の間の空白の期間、純友とその集団は一体どこにいたのか?どう移動したのか? が問題となるのである。

続く