藤原純友の乱と日振島の財宝伝説 blog

天慶年代 東の平将門の乱とほぼ同時期 時の律令国家に反逆し瀬戸内海・豊後水道で乱を起こした藤原純友の歴史とその財宝伝説を研究しています。最近、藤原純友の根拠地といわれた愛媛県宇和島市沖合いに浮かぶ日振島で新たにいろいろなことがわかってきました。純友の歴史研究をたどりながら、純友の財宝伝説に迫っていきます。

2014-10-01から1ヶ月間の記事一覧

伝承化する純友将門共謀説

>「将門純友東西軍記」によると、偶然京都で出会った将門と純友が、承平六年(936年)八月十九日に比叡山へ登って、平安城を見下ろしながら、「将門は王孫なれば帝王となるべし、純友は藤原氏なれば関白にならん」と約束し、双方が国に帰って反乱を起こ…

比叡山の誓い 純友将門共謀説

今回から、天慶の乱(平将門の乱と藤原純友の乱)から生まれた、古代日本史の律令政府最大の危機の中、最も劇的な場面として伝説化し語り継げられてきた、純友将門共謀説についてお話します。 平将門の乱において、将門が明確に律令国家に対して叛逆の姿勢を…

釜島・櫃石島(ひついしじま)の財宝伝説は純友のもの?

前回、楽音寺縁起の物語が史実を記載したものではないことは、特に登場人物の藤原倫実という人物の存在が史実としてなく、さらに純友自身が備前釜島で表舞台に立って戦闘し、そこで死去したことが事実でないということから、この縁起が創作された物語である…

「予章記」・「楽音寺縁起」にある備前釜島の純友

「予章記」とは、中世伊予国(現愛媛県)の中予・東予を中心とした在地支配の豪族 河野氏 の由来や来歴を記録した家譜(一家の系譜を書き記した書物)で、十五世紀に河野氏により作られたものと考えられおり、ここの記載において、河野氏が古代の越智一族の…

藤原純友財宝伝説 釜島・櫃石島(ひついしじま)説

さて、今回から藤原純友財宝伝説について日振島以外の場所で同じように伝説が残っているところがあるので、その地についての検証を述べていきたい。 純友の財宝を探す上で、日振島以外の場所の信憑性についてはどうであろうか? 日振島以外で純友の財宝伝説…

財宝は日振島に持ち込まれた?

さて、今回から 翌天慶四年からの政府軍の反撃と空白の五か月の問題、純友集団の大宰府への侵入、その目的について述べていく。 天慶三年の純友集団の西への移動の後、年が明けて天慶四年(941年)になるといよいよ政府軍の攻勢が強まってくる。 「北山抄…

歴史史料から消えた純友集団、空白の五か月間

さて、今回は 純友の乱の中で非常に注目される 空白の期間について検証していきます。 天慶三年八月以降、政府と対決する決意をした純友はその配下集団とともに、行動をともにし西瀬戸内海に移動して行ったが、純友集団の動きで非常に注目すべき空白の期間が…

その戦いは、改革か? 大宰府累代の財宝はどこに消えた?

>ついに政府と対当して大宰府から東アジア交易集団と交渉し、外国勢力を国内に巻き込んで、政府軍に逆襲する戦略に出たものと思われる。 そうするとそれは、もはや改革ではなく、革命にまで踏み込んだ決起となるだろう。あるいは、大宰府を襲撃したという事…

純友はなぜ大宰府へ向かったのか? 従五位の下の本当の意味に迫る。

さて今回から、藤原純友の乱の核心部分である 純友が巨海へ出ようとした理由 についてさらに深く、再検証していきます。 最終的に藤原純友の乱で、純友集団が向かったのは九州の大宰府ですが、なぜ大宰府に向かったのか?を明確に論証しているのは松原弘宣先…

純友の最期と逃亡先の謎 日振島は聖地

天慶四年(941年)五月二十日、最期の決戦が博多津であり、この戦いで壊滅的な打撃を受けた純友軍は、その後態勢を整え直すことができず、純友やその部下たちはそれぞれの本拠地に帰らざるをえなかった。 そうして、六月十一日には、備前・備中・淡路など…

藤原純友の乱終結

さて、天慶四年五月十九日 征南海賊使小野好古より「賊徒が大宰府内を虜掠(りょりゃく)した旨」との報告が京へ届き、「本朝世紀」天慶四年十一月五日条によると「今年五月二十日、大宰府博多津において~小野好古等がために討散を被る」とあり、五月二十日…

天慶四年政府軍の反撃と博多津決戦

天慶三年(940年)八月に純友が決起以降、純友集団は、徐々に西に移動している。安芸・周防国・周防鋳銭司・土佐国幡多郡と、徐々に西に移動して攻勢していることがわかる。しかし、明けて天慶四年(941年)からは政府軍の反撃が始まってくる。 一月二…

藤原純友の乱、始まる

>純友は決起してしまったのだ。そして純友は政府と対決しながら、当初の目的であった 「巨海」 へと向かい始める。 さて、天慶三年(940年)六月十八日には、政府で純友暴悪士卒(純友の部下たちを指す)への対策が検討され、同十九日に「純友士卒を追捕…

緊迫する情報戦と、瀬戸内海の反乱

ほぼ、同時期に勃発した東西の兵乱。律令政府はまず、風雲急を告げている、平 将門 の乱への対応を急ぐことになる。 そうして平 将門 討伐のための征討軍を坂東へと向かわせる準備を加速させるが、京の背後からは、ザワザワと忍び寄る海賊の気配がヒシヒシと…

東西の反乱

さて、ここで東国坂東の 平将門 の動きも朝廷を驚かし東西の兵乱が始まる。 東国坂東の 平将門は天慶二年(939年)十一月二十一日常陸(ひたち)国府で合戦し国府を占領 その報告は十二月二日には京都に届いている。さらに下野(しもつけ)・上野(こうず…

摂津須岐駅襲撃事件

さて、承平六年(936年)六月に西瀬戸内海の海賊の追捕に派遣された純友は、伊予国守紀淑人とともに海賊を服属させることに成功し、その後も純友は伊予国に留まり 淑人とコンビを組んで、伊予国と西瀬戸内海の治政・治安を維持していた模様です。 これよ…