藤原純友の乱と日振島の財宝伝説 blog

天慶年代 東の平将門の乱とほぼ同時期 時の律令国家に反逆し瀬戸内海・豊後水道で乱を起こした藤原純友の歴史とその財宝伝説を研究しています。最近、藤原純友の根拠地といわれた愛媛県宇和島市沖合いに浮かぶ日振島で新たにいろいろなことがわかってきました。純友の歴史研究をたどりながら、純友の財宝伝説に迫っていきます。

藤原純友財宝伝説 釜島・櫃石島(ひついしじま)説

 さて、今回から藤原純友財宝伝説について日振島以外の場所で同じように伝説が残っているところがあるので、その地についての検証を述べていきたい。

 純友の財宝を探す上で、日振島以外の場所の信憑性についてはどうであろうか?

 日振島以外で純友の財宝伝説が残っているのは、東瀬戸内海側の高松市沖合にある女鬼島 と 倉敷市児島半島の先端先にある釜島、左隣の純友神社のある松島を経て、その左隣にある櫃石島(ひついしじま)である。

 まず、香川県高松市沖合にある女木島説については、私の著書 知られざる宇和海 日振島 藤原純友財宝伝説の行方 の中で説明した通りであり、この場では割愛させていただく。

女木島についての説明はこちらを参照ください↓

http://www.city.takamatsu.kagawa.jp/kankou/meisyo/megi.htm

http://treasurejapan.blog102.fc2.com/category7-0.html

櫃石島についての説明はこちらを参照ください。↓

http://imagic.qee.jp/sima3/kagawa/hitsuishijima.html

 櫃石島の純友財宝伝説については、はっきりした史料が見当たりませんので、伝承として純友財宝伝説が残っているという状況にしかないようです。

 次に隣の純友神社がある松島は、釜島の北東にある人口三人?の島です。(岡山県下最小の有人島といわれる) 純友神社の由緒は不明のようだが、十七世紀後半ごろに「前太平記」が書かれて以降に、純友に結び付けられたものと考えられているようで、実際のところ純友に直接関わった神社なのかどうか不明のようです。そこは瓦葺(かわらぶき)の拝殿があり、拝殿内にはセンダイロック(千歳楽)=楽車(だんじり)が安置されているという。中世には、島全体が水軍(海賊衆)の城塞になっていたといわれる。

純友神社についての説明はこちらを参照ください。↓

http://www10.ocn.ne.jp/~veeten/iwakura/kagawa/sumitomo.html

http://www.kurashiki-tabi.jp/blog/?p=622

 次に問題の松島の隣にある釜島ですが、(備前)釜島 現在の倉敷市に属し、児島半島の南端下津井港の沖にある周囲二キロメートルほどの小島です。現在は無人島ですが、過去には小学校・中学校の分校もあったようです。横溝正史の「悪霊島」のモデルになった島ともいわれています。

 さて、この三島の地政学的位置については注意を払う必要があり、この地域は本州・四国との間が最も接近している地域であり、この周辺を押さえるということは、官船が通過を見張れる要所であるということがいえます。

 純友の時代 備讃瀬戸(備前讃岐の瀬戸)の間で東西・南北航路を押さえるという意味で絶好の要害となりえたのでしょう。

 この釜島伝説を中心とする松島の純友神社や櫃石島の純友伝承はどのような理由で存在するようになったのでしょう?

 この三つの島の財宝伝説や純友との関わりからその信憑性を検証する上で、注目されるのが、十七世紀後半に書かれた通俗史書「前太平記」に藤原倫実(ふじわらともざね)なる人物が釜島で純友を討ったという話が出てくるのだが、これは「楽音寺縁起」をもとに創作しなおされたものと考えられている。

 こうしたことから、次回は 「予章記」 と 「楽音寺縁起」の史料を通して、藤原純友の財宝伝説とのかかわりを検証し、その信憑性について結論を述べていきたい。

続く。