藤原純友の乱と日振島の財宝伝説 blog

天慶年代 東の平将門の乱とほぼ同時期 時の律令国家に反逆し瀬戸内海・豊後水道で乱を起こした藤原純友の歴史とその財宝伝説を研究しています。最近、藤原純友の根拠地といわれた愛媛県宇和島市沖合いに浮かぶ日振島で新たにいろいろなことがわかってきました。純友の歴史研究をたどりながら、純友の財宝伝説に迫っていきます。

「予章記」・「楽音寺縁起」にある備前釜島の純友

 「予章記」とは、中世伊予国(現愛媛県)の中予・東予を中心とした在地支配の豪族 河野氏 の由来や来歴を記録した家譜(一家の系譜を書き記した書物)で、十五世紀に河野氏により作られたものと考えられおり、ここの記載において、河野氏が古代の越智一族の系譜につながっており、古代から国家の重大問題に越智氏として活動した例として、藤原純友の乱の鎮圧への参加を記録している。

  現存する「予章記」のうちで最も古い形をとどめており、原本に近い写本として知られている「上蔵院本予章記」の記載によると、天慶二年の純友の乱に際し、伊予国の豪族 越智氏(越智好方)に純友追討の宣旨が出された。宣旨をうけた越智好方は「新居大島」(愛媛県新居浜市の大島)に何らかの理由で処罰され流されていた「村上ト云大剛ノ者」を「海上ノ働キ一人当千ノ者」であるとして追討軍に参加する勅許を得て、また「奴田新藤次忠勝」を武将に加え、中・四国から集めた兵士を率いて三百余艘で九州へ向かい純友軍と戦闘し純友の首をはねたとしている。

 

 一方、鎌倉時代末までに原型ができあがり、その後に加筆を繰り返され慶長年間以降に完成したと思われる「予陽河野家譜」においては、越智好方と二男の好峰が「備前籠島」へ出陣して戦闘し、被官の立場であった「奴田新藤次忠勝」が純友の首を取った」と記載されており、戦闘の場所が九州ではなく、備前籠島(釜島)となっている。

  しかし、釜島の方の記事は純友が博多津で小野好古と戦ったのが天慶四年五月で、純友軍が博多津で敗戦し同年六月に伊予のどこかに戻ってきた純友を討ったのは橘遠保であることから史実とは違っているので、何時かの時期に創作されている物語であることがわかる。

  さて、この物語に書かれている 越智氏が「奴田新藤次忠勝」を部下にして、博多津かまたは、備前釜島で戦闘し純友を討ったという伝承で、備前釜島の方を取り上げて検証してみる。

 まず越智氏の部下であるという「奴田新藤次忠勝」という名前から、この氏族は安芸国沼田郡の郡領氏族奴田氏が該当するものと考えられている。この奴田氏と純友の関係を検討するときに、注目される史料が「楽音寺縁起」の存在である。

 

 楽音寺縁起は、広島県豊田郡本郷町にある真言宗の古刹(こさつ)(古い由緒のある寺。古寺。)であり、古代安芸国沼田郡の郡領氏族沼田氏の氏寺と考えられている。その寺には六枚の絵と詞書(ことばがき)(絵巻物で、絵の前後にある説明文。)が交互に書き連ねられた「楽音寺縁起」があり、建立の由来が記載されているという。

 詞書の概略は以下の通りである。

 朱雀天皇の時代、藤原純友平将門と共謀して反乱を起こし、純友は備前国釜島に城郭を建て、四国・九州から京へ運搬されている年貢を略奪した。

そこで、安芸国に配流されていた藤原倫実(ふじわらのともざね)に純友追討の勅宣が下され、藤原倫実は、固辞せず数万の官軍を率いて備前国釜島へ出陣し戦闘したが、純友軍に敗退した。その際、髪の中に納めていた一寸二分の薬師像に助かれば寺を建造しその薬師像を安置すると念じたところ、窮地から脱出することができて、入京し敗戦の報告をした。そして再び純友追討の命令をうけ、藤原倫実は、淀津と川尻で大小の舟を集めて、出撃し、その舟に枯草を積み上げ、それに火をつけて釜島に突入させた。この火攻めと同時に陸上より矢を放つことで純友軍を壊滅に追いやり、純友の首を天皇に献上したという。これらの功績によって藤原倫実は、左馬允(さまじょう)に任命されさらに「安芸沼田七郷」を賜った。これより、先の誓約により寺を建造し一寸二分の薬師像を安置したという。

  このようにこの伝承が史実を記載したものではないことは、特に登場人物の藤原倫実という人物の存在が史実としてなく、さらに純友自身が備前釜島で表舞台に立って戦闘し、そこで死去したことが事実でないということから、この縁起が創作された物語であると考えられている。

 

では、なぜ実際に備前釜島とその周辺にある櫃石島に純友の財宝伝説が現れ、残ったのだろうか?

 

続く