純友の最期と逃亡先の謎 日振島は聖地
天慶四年(941年)五月二十日、最期の決戦が博多津であり、この戦いで壊滅的な打撃を受けた純友軍は、その後態勢を整え直すことができず、純友やその部下たちはそれぞれの本拠地に帰らざるをえなかった。
そうして、六月十一日には、備前・備中・淡路などからの報告が到着し、備前使が「賊 二艘、純友等也、響灘より舟を捨て抜け逃げる、疑うに入京するか」(吏部王記)とある。
こうした記載により、純友自身がどう考えていたかは知れないが、博多津の敗戦の後、純友が響灘で行方不明となり、そこから京に向かい、京でこの乱の弁明をしようとするのではないか?との憶測が広まったようだ。しかし、この時期にいたっては、この動乱で勝利し朝廷から乱発されている恩賞つまり、要はご褒美(ほうび)を受け取ろうとする者たちの純友らへの追手の追及が激しかったことは容易に想像でき、帰京の道は閉ざされていたことだろう。
六月二十日、伊予国において純友は伊予国警固使橘遠保(たちばなのとおやす)に射殺された。そうして、七月七日に純友とその子 重太丸 の首が京へ進上されたとある。
「純友追討記」には純友の最期についてこう描かれている。
「純友、扁舟に乗り逃げて伊予国に帰る。警固使橘遠保のために捕らえらる。次将等皆国々処々で捕らえらる。純友捕らえられ、その身を禁固され、獄中において死す」
ところで純友が伊予国に逃げ戻り逮捕された場所については、当時の史料にはどこにも記されておらず、伊予国でもいくつか伝承が残っているがその根拠に乏しい。
純友は伊予国のいったいどこに向かったのか? そうして 時の律令政府はどうして逮捕した場所、最期の場所を史料に残さなかったのか?
ここにも、純友の財宝の行方を暗示する鍵が隠されている。
古代日本において最大の大乱となった純友・将門の東西の乱は、時の朝廷を震撼させ、行き詰る律令国家体制を大きく揺るがした。将門の乱が関東一円内での独立国家樹立であったのに対し、純友の乱は西日本全域に拡大した大乱となり、その収束に政府は莫大な労力を使った。 純友は瀬戸内海の海賊・海民の人心を一手に集めるカリスマ的存在であったことはまぎれもない事実である。しかし、政府にとって、そうしたカリスマ性が純友を瀬戸内海の英雄として人民に神格化され、長く伝承され続けられることは ふたたび瀬戸内海で同じような大乱を起こす第二第三の純友を生むことになる。
律令政府はこれを心の底から恐れたのだろう。
そうして 海の英雄 純友が討たれた最期の地は、末永く 聖地化 されて後世に伝承されていくことになるだろう。
その聖地とはどこか? 純友が承平六年六月 伊予国日振島で巨海へ出る決意表明を海賊・海民に告げた 日振島 こそがその聖地になるのではないか?
純友は、伊予国の 日振島 へ戻ろうと あるいは戻っていたのではないのか?
日振島に隠された純友の再起のための財宝を使い、再び律令の世に改革と革命の風を送ろうとして。
そして時の律令政府は この日振島が再び改革・革命の聖地になることを恐れたのではないか?
だから、純友を歴史の記録の表舞台から静かに消し去り、改革・革命の聖地としての出発点であった日振島の名前を歴史上に残さなかったのではないだろうか?
私は思う。 純友の決意を語る日振島こそ 改革・革命の聖地なのだと。
そして最期に、大きな大きな母なる海は、純友の夢と歴史をつつみこんだ。律令の世が終わり、新たな時代が生まれるその日まで。
次回、純友はなぜ大宰府に向かったのか? 純友の乱の核心に迫っていきます。