藤原純友の乱と日振島の財宝伝説 blog

天慶年代 東の平将門の乱とほぼ同時期 時の律令国家に反逆し瀬戸内海・豊後水道で乱を起こした藤原純友の歴史とその財宝伝説を研究しています。最近、藤原純友の根拠地といわれた愛媛県宇和島市沖合いに浮かぶ日振島で新たにいろいろなことがわかってきました。純友の歴史研究をたどりながら、純友の財宝伝説に迫っていきます。

純友はなぜ大宰府へ向かったのか? 従五位の下の本当の意味に迫る。

 さて今回から、藤原純友の乱の核心部分である 純友が巨海へ出ようとした理由 についてさらに深く、再検証していきます。

 最終的に藤原純友の乱で、純友集団が向かったのは九州の大宰府ですが、なぜ大宰府に向かったのか?を明確に論証しているのは松原弘宣先生の著書「藤原純友」によってであり、これが現在の純友の乱の核心のスタンダードとなっています。

 そうして純友の目的が、単なる従五位の下という貴族の一員になるためだけの行動ではなく、西瀬戸内海の海民・海賊の生活基盤である海事・海運・交易事業の民間開放、さらに東アジア諸国との交易参入というグローバルな経済改革路線を持っていたことが、さまざまな状況証拠から導き出されるのです。

 例えば一つの状況事例として、天慶三年二月三日に、前年十二月二十一日に政府から伊予国へ派遣された純友の甥(おい)の藤原明方が伊予国解状と純友の申文を持って京に戻ってきている。つまり藤原明方は、純友が伊予国紀淑人の制止のいうことを聞かず「巨海」へ出ようとしている との理由について伊予国衙(こくが)と純友の双方から事情聴取してきたのである。

 そうして、その同日には純友に従五位の下の位記(いき)を与えることが決まり、蜷渕有相(になぶちのありすけ)に託されている。

 つまり、純友はこの件に関して、政府側に何か要求を出したのだ。そうしてその要求に答えるように即座に政府は純友に従五位の下を与えることを決めた。

 この従五位の下という位階は、これを以て上が貴族である。 ということは純友は貴族になることを要求していたのか?

 しかし、純友はこの年の八月以降に反乱を起こすことになる。つまり反政府側に回ったのだ。ということは、貴族になれる従五位の下を要求していたというよりも、それに付随する 何か を求めていて、それが政府に反故にされたから、あるいは実現不可能になったから反政府勢力について決起したと考えることが自然であるはずだ。

 従五位の下に付随する 何か とは何なのだろう?

 そこで注目されるのが、純友の父親であり、壮年で亡くなった 良範(よしのり)の位階である。

 良範の立場は、従五位の下の太宰小弐(実務上大宰府の次官)であったという事実から考えると、純友が従五位の下を与えられたことから、それに付随した太宰小弐つまり大宰府での交易に関する権限もある程度認めることが約束されていたのではないだろうか?

 そうして、その大宰府での権限が認められるということは、東アジア貿易に純友が関与することを意味するであろうし、その流通経路である西瀬戸内海での開運・流通・交易までも関与することができ、おそらくそこからこれらの民間開放を進める突破口が開けてくるものと思われるのだ。

 そして、こうした目的は純友が瀬戸内海諸国の海民・海賊から求められていた要望でもあり、その方針を打ち出したことが、全瀬戸内海の人民からカリスマ的な支持を受ける理由になっていたものと考える。

 こうしたことより、純友は承平六年 日振島での決意表明以来、最初から 大宰府 を目指していた、大宰府をめざして計画的に、用意周到に事を進めてきていたことが伺われるのだ。

 純友は伊予国日振島に来た当初から、大宰府を目指していたものと思われる。

 そうして、純友は天慶三年八月以降、政府に対して反乱を決起して以降、東瀬戸内海の藤原文元を中心とする反乱軍から分かれて、西へ移動してゆき西瀬戸内海側の純友集団を率いて大宰府に向かうことになる。ついに政府と対当して大宰府から東アジア交易集団と交渉し、外国勢力を国内に巻き込んで、政府軍に逆襲する戦略に出たものと思われる。 そうするとそれは、もはや改革ではなく、革命にまで踏み込んだ決起となるだろう。あるいは、大宰府を襲撃したという事実からすると、大宰府に蓄積されている累代の財宝を取引材料として、東シナ海に純友集団を率いて出る準備をしていたのではないだろうか?

続く