藤原純友の乱と日振島の財宝伝説 blog

天慶年代 東の平将門の乱とほぼ同時期 時の律令国家に反逆し瀬戸内海・豊後水道で乱を起こした藤原純友の歴史とその財宝伝説を研究しています。最近、藤原純友の根拠地といわれた愛媛県宇和島市沖合いに浮かぶ日振島で新たにいろいろなことがわかってきました。純友の歴史研究をたどりながら、純友の財宝伝説に迫っていきます。

その戦いは、改革か? 大宰府累代の財宝はどこに消えた?

>ついに政府と対当して大宰府から東アジア交易集団と交渉し、外国勢力を国内に巻き込んで、政府軍に逆襲する戦略に出たものと思われる。 そうするとそれは、もはや改革ではなく、革命にまで踏み込んだ決起となるだろう。あるいは、大宰府を襲撃したという事実からすると、大宰府に蓄積されている累代の財宝を取引材料として、東シナ海に純友集団を率いて出る準備をしていたのではないだろうか?

 前号からの続きを語る前に、純友集団の西瀬戸内海から大宰府に至るまでの動きを振り返ってみる。松原弘宣著「藤原純友」などの記載を参照すると、「北山抄」天慶四年(941年)1月十五日条に、「純友のことを決定するために、御前に諸卿を招集した」とあり、この時にどうやら純友本人の追討が決定された模様である。

 次に同月二十一日には純友配下で讃岐国で活動していた前山城 掾(じょう) 藤原三辰(ふじわらのみたつ)が伊予国で逮捕・処刑されており、二月中には東部瀬戸内海が政府軍により鎮圧されさらに政府軍が伊予国へ進んでいる。

 その後、天慶四年の三月・四月には政府軍と純友集団との関連記事が消えており、どうやらこの時期に純友集団は日振島とその周辺から九州の反政府勢力らを伴って、博多津、大宰府に潜入し当時九州大宰府を管理下にして鴻臚館貿易をしていた東アジア交易集団と純友が交渉していたものと推測される。

 このことは、背景として 純友と将門 -東西の兵乱ー(愛媛県歴史文化博物館発行)の書籍の中で、松原弘宣氏がこう述べている。

 西瀬戸内海交通・交易に関し、かつ、最終段階で純友が大宰府に向かったことは、大宰府・博多津に本拠を持つ東アジアで交易活動を行っていた集団と連合しようとしたのではないか。そうしたことが、天慶二年十二月の純友の行動を「本朝世紀」が「髄兵を率いて、巨海へ出んと欲す」と記載した理由であり、さらに 越州(中国)系陶磁器の交易圏が西瀬戸内海各地域形成(西瀬戸内海各地で出土している)されていたこともこうした想定を支えるものである。

 こうした理由が純友の乱が起こった根底にあり、中国を主とした東アジア交易が大宰府・鴻臚館から西瀬戸内海を通じて、京都につながっていた。こうした外国との交易の流通経路に瀬戸内海が使われていたことからその交易や流通に民間開放・民間参入の要望が全瀬戸内海で広がっていたものと考えられる。 この民間への交易・流通開放の要望を純友が政府に求めていたことがうかがえるのだ。

 さて、政府軍は天慶四年二月中には伊予国に進みつつあるなか、純友集団は乱の当初の目的である大宰府・鴻臚館に向かい東アジア交易集団との交渉を三月・四月ごろしていたことは、乱が最終段階にきて、政府軍との決戦にそなえ、東アジア交易集団を通じた外国(中国)の軍事勢力を日本に引き込み、政府軍に逆襲することを交渉していたのではないか?

 あるいは、政府軍の追及をのがれ、東アジアへ進出することを考えていたのではなかったか?

 それは、日本の律令制の改革から、ついに諸外国をまきこんだ戦争で、政府を倒し新たな政治体制を構築する革命にまで踏み込むことを意味している。

 そうして、それを実行に移すためには 莫大な資金が必要になってくる。

 中国と連合するために、あるいは東アジアへ出るために 大宰府に蓄積されていたの累代の財宝や交易品・砂金を奪う必要性が生じたのではないだろうか?

 こうしたことが、純友が大宰府を襲撃した理由として推測されてくるのだ。

 そうして、純友集団は大宰府を襲撃・占拠し累代の財宝・交易品を手に入れ、諸外国の交易集団と交渉していたか、あるいは東アジアに向かって進出する準備をしている最中に、政府軍に追いつかれたのではないだろうか?

 これより、遅くとも天慶四年五月までには、純友集団は博多津へ向かい大宰府周辺に潜入し、その後、大宰府襲撃により累代の財宝を手に入れている。そうして五月二十日の博多津の決戦で、政府軍と壮絶な戦闘が行われ敗北している。

 そうして、六月十一日には、吏部王記などの記載により 「賊二艘、純友等也、響灘より船を捨て脱け逃げる、疑うに入京するか?」との報告があったとある。

 純友は、博多津の決戦で敗北したが、政府軍の追及を響灘(玄海灘につながる長門国の西海上)でかわし、一旦消息を絶つ。

 純友はどこへ向かったのだろうか?

 もちろん、伊予国のどこかへ向かったのだろうが、この段階にきては当然 伊予国も国府を中心として政府の純友包囲網が敷かれているわけであり、瀬戸内海側へは戻れないことは純友自身も容易に理解していただろう。

 ・・・・純友が向かった先とは、豊後水道を通過し宇和海に面する日振島しかなかったものと考えられる。

 そうして、純友は逃亡のために大宰府で奪った何かを所持していたはずだ。 それは逃亡のために携帯性に優れる資金であったはずだ。

 当時大宰府の官庫に蓄えられていたであろう諸外国との交易のために使われていた砂金がその資金となっていたのではないか?

 そうして、純友は 逃亡資金としての砂金を持って日振島とその周辺にもどって・・・いた?

 そうして、日振島には 大宰府に向かう前に乱の最中に奪った各地の財物が隠されている?

「純友追討記」によると、天慶三年八月以降の備讃瀬戸を中心にした海賊活動の中心に純友がおり直接指揮をとっていたと記されている。こうした記述は純友追討記のみに記載されているものであるが、「純友、国府に入り火を放ち焼亡し、公私の財物を取る也」とある。 公私の財物を取る也 とあるのだから、純友集団はそれらをどこかに隠しているはずだ。 その場所こそ、日振島とその周辺ではないのか?

 そうした財物も純友のその後の逃亡のために必要な資金となるはずだ。

 純友は日振島に戻って、再起のための準備を図ろうとしていたのではないか?

 そして、警護使 橘遠保によって純友は発見、最期を迎える。 橘遠保や純友を討った後、宇和荘(現愛媛県南予地方)を与えられたという。

 さて、橘遠保は純友の財宝を見つけられなかったのではないか? 純友の財宝が見つかったという報告は歴史史料上に皆無である。

 おそらく、純友の財宝は永遠に日振島とその周辺にいまも静かに眠りつづけているはずだ。いつか純友がよみがえり、再び巨海へ向かうその日まで。

 次回、藤原純友は宇和荘(現愛媛県南予地方)の日振島に居た? です。