藤原純友の乱と日振島の財宝伝説 blog

天慶年代 東の平将門の乱とほぼ同時期 時の律令国家に反逆し瀬戸内海・豊後水道で乱を起こした藤原純友の歴史とその財宝伝説を研究しています。最近、藤原純友の根拠地といわれた愛媛県宇和島市沖合いに浮かぶ日振島で新たにいろいろなことがわかってきました。純友の歴史研究をたどりながら、純友の財宝伝説に迫っていきます。

純友 日振島へ

さて、日本記略 承平六年(936年)六月某日条 に記載されている記事 「南海賊徒の首藤原純友、党を結び、伊予国日振島に屯集し、千余艘を設け、官物私財を抄却す、ここに紀淑人をもって伊予守を任じ、兼ねて追捕のことを行わしむ」とあります。

 そうしてこの記事の後に、日振島・宇和海周辺の海賊集団の首領であった 小野氏彦 紀秋茂 津時成 など三十余人、総勢約二千五百人ほどであったといい その後彼ら投降してきた者たちをに伊予守として赴任してきた紀淑人(きのよしと)が衣食や田畑・種子を支給して農耕に就けさせることに成功したという内容の記事が続きます。

 つまり承平六年 純友は紀淑人の赴任に先だって、伊予国に着くとまず日振島に出向いて、西瀬戸内海の海賊活動の原因となっている日振島を中心にした宇和海の海賊の取り締まりに当たったということが推測されます。

 しかし、いくら武装集団を用いて出向いたとしても、海賊のホームグラウンドで追討することは賢明な戦略ではないはずです。実際、この日振島での取り締まりで、純友軍と宇和海の海賊との間で戦闘はなかったものと考えられています。

 では、なぜ戦闘にならなかったのでしょう?

 そこで問題となるのが、先の日本紀略の 「伊予国日振島に屯集し、千余艘を設け」の部分なのです。この部分の解釈は現在、日振島に千艘もの船を集めることは現実的でなく、おそらく宇和海一帯の西瀬戸内海に出向いて海賊活動をしていた海賊が一同に集まったものと考えれております。

 つまり純友は伊予国に赴任して日振島に来たときに、宇和海の海賊を日振島に招集したものと思われます。そうしてそこで、、純友が反政府側の海民や海賊に 西瀬戸内海での海賊活動を控えさせるために、何か交換条件というか、豊後水道や瀬戸内海での将来的な政策目標を掲げ、集まった海賊・海民たちの目の前で決意表明をしたことにより海賊や海民たちが、過去に伊予国で実績のある純友を信用し その後の紀淑人の海賊投降の呼びかけに応じたのではないだろうか。

 しかし、その一方で、紀淑人が海賊を投降させ農業に就かさせたという記述は、実に疑わしい。海の仕事に従事する海民や海賊たちに、仕事を変えて明日から農業をやりなさいなど現実的にやれるわけがない。

 そこでおそらくは、純友の管理下に妥協した海民や海賊たちが、何か純友が行動を起こすまでおとなしく待っているというところが実際だったものと思われるのです。

 そうして、純友の日振島での決意表明は、瞬く間に海の海民や海賊の非常に速い情報伝達のネットワークを介して豊後水道、全瀬戸内海へと広がっていったものと思われます。

 いずれにしてもこの後、数年は大きな海賊活動が歴史資料上に見えなくなったので、一時的に朝廷の純友への命令が成功し、一見沈静化したように見えたのですが・・・。

 そして、三年後の天慶二年(939年)十二月十七日、いよいよ後の藤原純友の乱の目的のすべてを物語る報告が、伊予国から明らかになります。

続く

 

藤原純友 (人物叢書)

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日振島 藤原純友財宝伝説の行方―知られざる宇和海

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藤原純友の乱

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物語の舞台を歩く 純友追討記

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