藤原純友の乱と日振島の財宝伝説 blog

天慶年代 東の平将門の乱とほぼ同時期 時の律令国家に反逆し瀬戸内海・豊後水道で乱を起こした藤原純友の歴史とその財宝伝説を研究しています。最近、藤原純友の根拠地といわれた愛媛県宇和島市沖合いに浮かぶ日振島で新たにいろいろなことがわかってきました。純友の歴史研究をたどりながら、純友の財宝伝説に迫っていきます。

天慶四年政府軍の反撃と博多津決戦

 天慶三年(940年)八月に純友が決起以降、純友集団は、徐々に西に移動している。安芸・周防国・周防鋳銭司・土佐国幡多郡と、徐々に西に移動して攻勢していることがわかる。しかし、明けて天慶四年(941年)からは政府軍の反撃が始まってくる。

 一月二十一日には伊予国より前山城 掾 藤原三辰の首が京へ届けられた。二月には政府軍が讃岐国の純友軍を撃破しており、そのまま伊予国へ進軍している。つまり二月には東部瀬戸内海地域で海賊の鎮圧が終わり、政府軍の支配下に置き換わっている。

 その後、五月十九日までの三月・四月ごろの純友集団の動きを示す史料が存在しないため、純友の動きが明らかでないが、おそらく三月・四月ごろ 純友集団はおそらく体制を整え直し大宰府に向かう準備をしていたであろう潜伏先の日振島を出て、豊後など西国九州の反政府集団と連合して、大宰府に向かったものと思われる。

 日振島とその周辺は古来、純友の時代から島名が史料に現れ、戦国時代も豊後から大友軍の伊予への侵入の中継基地として名称が現れる。反対に土佐国長曽我部元親による豊臣秀吉の島津氏制圧の命令による九州遠征時、帰国の中継地としても名前が現れている。

 このように日振島は、四国の宇和郡と豊後を結ぶ要所であったようだ。

 こうして、純友集団は、大宰府をめざして進軍した。

 さて、天慶四年五月十九日 征南海賊使小野好古より「賊徒が大宰府内を虜掠(りょりゃく)した旨」との報告が京へ届き、「本朝世紀」天慶四年十一月五日条によると「今年五月二十日、大宰府博多津において~小野好古等がために討散を被る」とあり、五月二十日の博多津の戦いで純友集団は敗退したことがわかっている。そうして六月六日には追捕使(ついぶし)は「賊徒を撃破した旨を報告」している。

 これまでの経過から、天慶三年十二月十九日に土佐国幡多郡を純友集団が襲撃してから、遅くとも天慶四年五月までには、純友軍は博多津へ向かい大宰府を襲撃し、その後、五月二十日の博多津の決戦で敗北したことがわかる。

 純友集団は日振島を出て、九州博多津へ向かい大宰府を襲撃するまでの間、九州北部で一体何をしていたのか?

 ここに純友の乱の本質がありはしないか?

 純友が政府に突き付けた要求は、従五位の下という紙切れの位階をもらって貴族になることが目的ではないということだ。

 本当に貴族になりたいだけならば、すでに従五位の下の位階を受け政府に悦び状まで出した後の、備讃瀬戸での戦闘で政府に反して純友が決起する必要はなかったはずだ。

 純友が決起した背景には、政府が従五位の下とともに付随させた純友の要求を裏切ったことにあるものと思われる。

 本当に純友が悦び状を出した意味は、従五位の下の位階を喜んだのではなく、それに付随していた 純友の本当の要求を 政府が一旦認めたからではないか?

 純友の乱の核心・・・・それは純友の本当の要求は、瀬戸内海開運流通の政府から民間への開放 と 大宰府を通じた中国を中心とする東アジア交易への民間参入にあるものと考えられるのだ。

 この要求が通れば、全瀬戸内海の人民の生活を保障し、海賊活動を抑えることができる。

 ここで、「日本記略」承平六年六月某日条の純友の記事を読む。

 南海賊徒の首藤原純友、党を結び、伊予国日振島に屯集し、千余艘を設け、~ 二千五百人、過を悔いて刑に就く。魁師(かいすい)小野氏彦・紀秋茂、津時成 等 合わせて三十余人、手を束ねて交名(こうみょう)を進め帰降する。

 純友は海賊鎮圧に伊予国に向かって一番最初に手掛けたのが、この日振島を中心とする豊後水道周防灘伊予灘海域での海賊を取り締まることだった。

 しかし、純友はここの海賊と戦闘をすることなく、政治的に海賊たちを説得し、彼らの信頼を取りえたのだ。

 この政治的解決を私は、純友の 瀬戸内海海運流通の自由化と大宰府を通じた東アジア交易への民間参入の日振島での決意表明と考えている。

 海賊や海民などの人民はこう思っただろう。

 純友さまについていけば、「仕事」がもらえる。食べていける。家族とともに 生きていける・・・」と。そう思った理由が純友の決意表明だ。

そして、最終的に純友は政府の裏切りにより決起、日振島決意表明を実行にうつすべく、大宰府に向かい 東アジア貿易集団 との交渉に向かったものと考えている。

 純友は東アジア交易集団と連合し、政府軍を迎え撃ち、逆襲を考えていたのではないか?

 そうして、純友は巨海へ、東アジアへ出ようとしたのではないか?

 私は、純友は古代においていち早く、東アジアとの民間交易参入というグローバリズムを実践しようとした改革の先駆者だったと思っている。

 そうして、それは古代日本における経済構造の革命にもつながってくるはずだったのだが・・・・。

次回、藤原純友の乱 終結 です。