伝承化する純友将門共謀説
>「将門純友東西軍記」によると、偶然京都で出会った将門と純友が、承平六年(936年)八月十九日に比叡山へ登って、平安城を見下ろしながら、「将門は王孫なれば帝王となるべし、純友は藤原氏なれば関白にならん」と約束し、双方が国に帰って反乱を起こした とある。
純友将門共謀説について記載されている史料で最も年代が遅いものにこの将門純友東西軍記がある。
「将門純 友東西軍記」は、天慶の乱(平将門の乱と藤原純友の乱)の顛末(てんまつ)が書かれた軍記物であり、「群書解題(ぐんしょかいだい)」十三によると、その作者・成立年代は明らかでないが、寛文五年(1665年)の書写識語(しょしゃしきご)(書写に際しての来歴・年月などの加筆)が存在し江戸時代までは至らず、室町時代の成立ではないかと考えられているという。
これより遅くとも室町時代には、天慶の乱において 平将門は桓武(かんむ)天皇の後裔(こうえい)であることより「帝王」に、藤原純友は藤原氏であるから「関白」になろうと互いが約束し合い、共同で反乱を起こしたと考えられていたことが推測される。
次に、十四世紀前半には、北畠親房(きたばたけちかふさ)が南朝の正統性を主張し天皇の歴史を書いた「神皇正統記(じんのうしょうとうき)」で、「藤原の純友といふ者、彼の将門に同意し、西国にて反乱せしをば」、「むかしの将門は、比叡山に登りて、大内を遠望し謀反を思ひ企てける」と書かれ、「平親王」と自称し皇位を奪取しようとした将門に視点を絞り、純友は「将門に同意して」と書かれているように将門に従った人物として描写されている。
このような記載に注意をはらうと、「将門純友東西軍記」の将門と純友が比叡山に登り平安京を眼下に見て互いが反乱を誓い合うとした部分は、「神皇正統記」の記述を史料として参考にし、創作していった可能性が高いものと考えられている。
次に、「将門は帝王」「純友は関白」と約束し合った部分は「大鏡(おおかがみ)」の第四巻の以下の記事が注視される。
この純友は、将門同心に語らいて、、おそろしき事企てたるものなり、将門は「帝をうちとり奉(たてまつ)らん」と言い、純友は「関白にならん」と、同じく心を合わせて、「この世界に割れと政事(まつりごと)をし、君となりてすぎん」といふことを契(ちぎり)あい・・・、
と書かれており、「将門は帝王」「純友は関白」と約束したとの物語を早々に創作したのは「大鏡」であったようだ。
「大鏡」の成立時期はおおよそ十二世紀初頭あたりと考えられており、遅くともこの時期には将門・純友両人が「将門は帝王」「純友は関白」と約束し合っていたと考えられているようだ。
さて、問題の将門と純友が本当に比叡山に登り平安京を眼下に見下ろし反乱を約束したのか? という点だが、「将門純友東西軍記」によると、将門と純友が比叡山に登ったのが承平六年八月十九日とこととしている。しかし、この時に将門は坂東に帰っており、純友は伊予国に派遣されており、両人とも平安京にはいなかったことがわかっているので、純友と将門が比叡山に登り反乱の約束をしたということは事実ではなかったようだ。
ただし、将門も純友も過去に時の権力の頂点に立つ藤原忠平の家人として仕えていた経歴があり、お互いが既知の仲であったという可能性はあると思われる。こうしたことから、比叡山に登って反乱を誓い合ったことは事実でないにしても、なんらかの提携を過去にしていたことがあったのではないかということも考えられないことはないだろう。
また、当時の京の貴族たちは、本朝世紀天慶二年十二月二十九日条において 「純友・将門 謀(はかりごと)を合わせ、心を通わせ、此の事を行うに似たり」 の記載から、当時の貴族らが、平将門と藤原純友の二人は連絡を取り合って東西で同時反乱を起こしたのではないか?と 考えていたことがわかる。
以上のように、これまで挙げた史料を総合しながらまとめていくと、純友将門の共謀説は、比叡山の誓いは劇的な創作であり事実ではないが、お互いが既知の存在であった可能性はある。そうして可能性としては低いが二人の間に過去に腐敗して行き詰る律令国家に対する改革の思いから、何らかの接触が二人とも在京していた時期にあったのかもしれない。
しかしその一方で、現実的には 純友が将門と最初から乱を起こすつもりであったのであれば、将門が東国の国府を次々に攻め落としていった時期に行動を起こしていくはずなのだが、その時期の純友は伊予国から移動しようとはしなかった。これより将門と純友が事前に共謀して乱を起こそうとしていたとは考えにくということがいえるだろう。
将門純友共謀説は、こうした状況のもとに乱がはじまり、そうして終結した後からも、さまざまな憶測を呼び返し、比叡山の誓いのような実にドラマティックな伝説へと熟成されてゆき、永遠の物語として人々を魅了していくのだ。