藤原純友の乱と日振島の財宝伝説 blog

天慶年代 東の平将門の乱とほぼ同時期 時の律令国家に反逆し瀬戸内海・豊後水道で乱を起こした藤原純友の歴史とその財宝伝説を研究しています。最近、藤原純友の根拠地といわれた愛媛県宇和島市沖合いに浮かぶ日振島で新たにいろいろなことがわかってきました。純友の歴史研究をたどりながら、純友の財宝伝説に迫っていきます。

摂津須岐駅襲撃事件

さて、承平六年(936年)六月に西瀬戸内海の海賊の追捕に派遣された純友は、伊予国守紀淑人とともに海賊を服属させることに成功し、その後も純友は伊予国に留まり 淑人とコンビを組んで、伊予国と西瀬戸内海の治政・治安を維持していた模様です。

 これより純友は、前の伊予の掾の時代に海賊・海民たちと築いたつながりと、今回の海賊服属成功により、その後の藤原氏の一門として西日本流通経路の要である瀬戸内海の海賊・海民たちの信頼を得、カリスマ的指導者として成長していったものと思われる。

 海賊・海民たちの希望の星となっていった理由は、おそらく瀬戸内海流通の仕事と生活圏の保障ではないだろうか。そうして早い時期に大宰府を通じた東アジア貿易への参入による新たな西瀬戸内海交易の民間開放があったのではないか?

 この936年の海賊服属成功の史料より後、しばらく中央の記録史料から海賊関係の記述がみられなくなる。こうしたことは、次の行動に移る前までに、純友の組織力が徐々に水面下で構築されつつあったことを示唆している。

 そうして 次の行動 が先の伊予国からの訴状 「純友が巨海に出ようとしている」 から始まる。

 海賊服属からおよそ3年後の天慶二年(939年)、長門国の報告史料などで、「天慶二年春初より凶賊乱盛、往還たやすからず」とみえ、9月には南海の乱行に対して、朝廷は祇園社にて祈祷(きとう)をさせる記事も見られ、ふたたび西瀬戸内海が荒れてくる。

 その理由は、西日本ではこの年、前年来の洪水と飢饉(ききん)により疫病が流行、餓死者も多く米価が急騰、盗賊が京に横行し四月には大索(おおあさり)と呼ばれる大捜索が行われたりしている。

 こうした社会情勢が危機的な時期に十二月十七日伊予国から「純友が船にのって海上に出ようとしている」との報告が届き、二十一日には純友の京への召還の官符が中国地方の諸国に下されるのである。

 そうしてこの二十六日に純友の従者である藤原文元らによって備前「介」であった藤原子高が襲撃を受けるという事件が起るのである。

 その場所は、日本記略では「摂津国須岐駅」、純友追討記では「摂津国?原(うはら)郡須岐駅」本朝世紀では「摂津藁屋駅家辺」としている。つまり西宮の西を芦屋灘に入る宿川(すくかわ)の辺り、現在の兵庫県芦屋市にあった山陽道の駅家葦屋(あしや)駅」と推測されている。純友の勢力は当時、このように大阪湾深く、ここまで及んでいたようだ。

 丁度この時期、東国で平将門が謀反を起こし新皇を称し独立国家を宣言したとの報告が京にもたらされており、朝廷は驚愕し、将門と純友が東西で共謀して謀反を起こしたのではないかと恐れている。

 天慶2年(939年)12月、純友は部下の藤原文元に備前介藤原子高と播磨介島田惟幹を摂津国須岐駅にて襲撃させ、子高の鼻を削いで捕らえ、妻を奪い、子供らを殺したと言われるが、これは純友が指図してのものかどうかはわからない。

 文元らによる子高一族の凄惨な襲撃の原因にあるのは、子高ら自らが同様なことを民衆にしていたからではないかだろうか?

 さて、備前介藤原子高はなぜ襲撃されたのだろう?単なる民衆の恨みだけによるものではないことが推測されている。

 この子高襲撃事件については純友の乱に関連して、さまざまな推測がなされているのである。

 純友追討記の記載に 「子高、その事を風聞し、その旨を奏聞せんがために、妻子を相具(あいぐ)して陸より上道す。」とありこの記事によると、京都の連夜の放火事件が純友の士卒によるものであることを任国備前岡山県・国府は岡山市)で風聞した子高が、これを政府に報告するため上京する途中、その動きを知った純友が部下の藤原文元を使って襲撃した という見方が一つある。

 こうしたことからも、その当時で純友の士卒は京から瀬戸内海沿岸諸国に広範に配置され、細部まで情報網が張り巡らされていたことがわかる。

 しかし、近年ではこの純友追討記の 「その事を風聞し、その旨を奏聞せんがために」の「その事」と「その旨」の内容に新たな見解が出てきている。

 それは、純友が京への侵攻を狙っていたのではなく、先の天慶二年十二月十七日の伊予国からの報告にある 巨海に出ようとしている の 「純友と配下の海賊集団の東アジア進出の意思」 ということにあるものと推測されている。

 さて、先にもあげたとおりこの時期 実は東国においても律令政府をゆるがす大きな事件が起っていた。それが周知の通り常陸国府、上野国府 下野国府を次々と陥落させ、ついに 東国坂東における 新皇就任 を宣言した平将門の乱 である。

 偶然からの二つの乱のほぼ同時期の勃発であるが、ほぼ同じ時期に勃発した乱のため 純友と将門の共謀説がまことしやかに伝えられ伝説化した。

 しかし、偶然とはいえ 純友はこの平将門の乱を自らの東アジア進出の目的のためにこの事件の後も、大いに利用していたことが推測される。

 いずれにしても、これまでの純友の行動に関しては、平将門とは大きく異なっている。というのも、平将門が政府に対する明確な反逆として行動してきたのは、国府襲撃からであり それも彼自身の私闘の延長としてなりゆきにまかせて国府を焼いた行動から、その後 新皇就任後も目指したところがおおむね関東での自立国家樹立であり、新皇宣言後の具体的な国策をまったく持っていなかったことに対し、純友のそれは、当初から巨海進出、つまり東アジア交易への参入を目指すというグローバルな国策を持ち、その目標のために政府との交渉を有利に進めるため、京都周辺から全瀬戸内海に部下を配備していることがわかる。京都への連夜の放火はおそらく、社会不安の醸成(じょうせい)を狙った、政府との交渉の第一段階なのだろう。純友の組織には、前の山城「掾」であった藤原三辰なる人物がおりこうしたことからも京都への圧力がかけられたのだろう。

 純友は、東国での平将門の謀反をいち早く情報としてキャッチし、これを政府との交渉の好機と判断したとみて差し支えないだろう。いわば、律令政府との情報戦の様相を呈している。

 将門と純友は性格も、ものの考え方も好対照で面白いが、本当にこの二人が連絡を取り合って同時期に反乱を起こしていたら歴史がまた大きく違った展開を見せたかもしれない。

 将門の反乱はなりゆきまかせの素朴さ、純朴さ、泥臭さが感じ取れるのに対し、純友の反乱は、非常に計画的であり、緻密であり、現代的 福田豊彦氏の表現で言えば 都会的 なのである。

 さて、天慶の乱平将門の乱藤原純友の乱)は、いよいよこの後、東西の同時兵乱となって時の律令国家を大きくゆるがしていく。

続く

 

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