藤原純友の乱と日振島の財宝伝説 blog

天慶年代 東の平将門の乱とほぼ同時期 時の律令国家に反逆し瀬戸内海・豊後水道で乱を起こした藤原純友の歴史とその財宝伝説を研究しています。最近、藤原純友の根拠地といわれた愛媛県宇和島市沖合いに浮かぶ日振島で新たにいろいろなことがわかってきました。純友の歴史研究をたどりながら、純友の財宝伝説に迫っていきます。

「承平南海賊」事件と伊予国喜多郡不動米略奪事件

さて、先に述べたように9世紀の海賊と10世紀の海賊は、その海賊の構成に違いがありました。そうして、9世紀から10世紀に移り 承平年間の承平元年(931年)~承平六年(937年)頃には、瀬戸内海の海賊の活動がふたたび頻繁に起こってきます。この期間の海賊活動がいわゆる 「承平南海賊事件」 と呼ばれるもので、これが天慶年代に入っての藤原純友の乱につながる導火線的な海賊活動となっています。

 その海賊活動の理由は、先に述べているようなことのほかに、10世紀の承平・天慶年代になると瀬戸内海の物流も非常にその量が莫大なものとなり、政府は税の海運などのほかにも、大宰府を通じた東アジア貿易の独占をしており、水運の需要が爆発的に拡大してきます。

 これより、大量の水手集団(いわゆる海運に従事する海民)が必要になり、その海事の利害関係、勢力争いをめぐっても瀬戸内海各地で頻繁に対立が激化してきていたことがわかります。

 こうしたことが、瀬戸内海各地で頻繁に海賊活動が激化してきた原因となっていたようで、その対策に有効な手立てが講じられないままきているところに、承平四年の冬 伊予国喜多郡(現愛媛県大洲市あたり)の官庫から三千余石の不動米が盗まれるという事件が起こります。ここでいう不動米とは政府の許可がおりないと出せない非常用のために備蓄された米のことです。

 その盗まれた量は、現代でいうと三千俵以上にものぼったようで、おそらく千人規模の集団で襲って持ち去ったと推測されています。

 しかし、不自然ですね。数人でこそっと盗みにくるのなら目立ちませんが、堂々と千人くらいでやってきて、どっと持ち去ってしまうとは、だれが見たっておかしい。これだけ大規模に人が押し寄せてきたのに、国司たちは抵抗もせずに一体何をやっていたんでしょうねえ?不思議なことにこの事件で処罰された者や国司の名前が歴史上に見えてこない。

この事件、裏に何か思惑のありそうな、胡散臭い(うさんくさい)状況です。

 察するところ、承平南海賊が瀬戸内海各地で暴れまわっているどさくさにまぎれて、この不動米の略奪に手を貸した、あるいは便乗した、ひいては入念な計画をたてて指揮した者がいたんじゃないでしょうか?

古代は米が、お金に代わる重要な決済手段の一つであり、なおかつ食料でもあったので、この事件に関与していた者は莫大な資産を手にいれたということを意味し、あるいはその米が広く人民に分け与えられたりしたら、この事件の首謀者は、瀬戸内海各地の人民の命の恩人ですね。さぞかし感謝され人望が高まったことでしょう。

 一方、政府側からすれば、この事件の首謀者は海賊・賊徒であります。しかし、もしこの首謀者が政府側の者であったとしたら・・・・。

 政府側は、国司の中のあいつが あやしい! とは思っていたとしても、明らかな証拠でもなければ、その者は 海賊である一方、官僚でもあるという相反する立場を同時にもった人物ということになってしまう。

そして、この事件に藤原純友が関与していたかどうか?それは謎のままでありますが・・・。歴史資料上には出てきませんが、この事件の前後に、純友はどうやら伊予の掾としての任期を終え、京に一旦帰っていたようです。

そうして この事件の約一年後に初めて 藤原純友 の名前が歴史上に登場してきます。

 

 

藤原純友 (人物叢書)

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日振島 藤原純友財宝伝説の行方―知られざる宇和海

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藤原純友の乱

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