海賊の発生と9世紀10世紀の海賊の違い
>承平四年の冬には伊予国喜多郡で三千余石という莫大な米が官の蔵から略奪される事件が起こったのです。
さて、10世紀(900年代)の承平年間になると、海賊の活動が瀬戸内海で活発になり、その顕著な例として承平四年の冬 伊予国喜多郡で三千余石という莫大な米が官の蔵から略奪されております。
この事件を検証する前に そもそも瀬戸内海で海賊はなぜ発生したのか?を知っておく必要があるのです。
そうして9世紀ごろ発生した海賊と10世紀ごろの海賊は、同じ海賊でもその質が異なってくるのです。
まず9世紀頃発生した海賊とは、どのような原因で発生したのでしょうか?
9世紀ごろの律令国家制度のもとでは、政府は各地方より主に米や塩など地方で生産される産品を税として徴収していました。
ところが、まだ未成熟の日本にあって、その税徴収の体制は未熟であり、それまでの律令体制が崩壊しつつあり、律令政府が地方に派遣した役人である国司たちは、悪政をするものが多く、ワイロなども横行。さらに特権階級の貴族や有力寺社、豪族などによる主に塩田の掌握を中心とした瀬戸内海沿岸地域の荘園化や私領化が広がってきました。
なぜ広がってきたかというと、地方の人民が律令政府の過酷な税の徴収から逃げるために、自分達のところでできた産物を地方の有力者たちに一定の量 差し出すかわりに自分達の土地はその地方有力者の土地ということにしてもらうようにしていったからです。
だから地方官の国司や郡司が税金を徴収に行っても、その土地が生産者たちの土地でないという建前があるので 税金がとれない という事態がふえていた。
呈のいい脱税が全瀬戸内海で横行していたんですね。
さらに政府の過酷な徴税から逃れるために、逃げ出して浮浪化する人民もふえたりする。
そうしてどんどん税でとれるところが少なくなって とれるところからはさらに重い税をとるようになり、さらに人民が逃げ出したりする・・・悪循環ですね。
こうして逃げ出した人民が、食うや食われずから海賊化していく。
そうして九世紀の海賊の特徴としては、「追いかけりゃカラスが散らばるように逃げていく、警戒をゆるめるとまた集まってくる」などと表現されるように海賊の行動は不規則で予測しにくい バラバラの単一行動をとる海賊が中心でした。
こうした単一行動をとる海賊に対して政府は 武芸にすぐれ盗賊対策に使われていた浮囚(ふしゅう)つまり帰属した蝦夷(えみし)や勇猛果敢な武芸達者な浪人などプロの傭兵集団をやとって瀬戸内海を警備させなんとか沈静化させていました。
ところが、承平年間に入るとまた海賊活動が活発化してきたのです。
近年、この9世紀と10世紀の海賊の本質に違いがあるようだということがわかってきており、承平年間の海賊は 浮浪化した海民も大なり小なりいたでしょうが、その中心はどうもこれまで政府が地方の豪族や有力な家系から雇っていた衛府舎人(えいふとねり)に移ってきているようなのです。この衛府舎人 8世紀ころまでは、平たく言えば、政府の中でいわば護衛隊をやっていた者たちで、政府は外国 おもに新羅や渤海 蝦夷に権威をふるっていたんですね。こうした衛府舎人は 免税特権 を与えられていました。
今の北朝鮮がたびたび軍事パレードをやるように、日本の律令国家も国威をアピールしていたわけです。
しかしこうした護衛隊を雇っていると、莫大な経費もかかるわけで、やがてわざわざ国威を示さなくてもいいような時期になると このいわゆる護衛隊を政府はリストラしはじめた。
リストラされた衛府舎人は、おのおのもとの地方に帰っていくしかない。
しかし、そこで今度は政府や国司たちから 税を徴収される側になってしまうわけです。
これに反発した彼らは、免税特権の既得権がある!という建前で抵抗していましたが、承平年間に入るとそれもまったく認められなくなったようで、各地で国司と争いが激しくなり、場合によっては集団で海賊化し略奪を始めるようになっていくのです。
このように9世紀の海賊がバラバラの単一行動をとっていたのとは異なり、10世紀になると瀬戸内海では大規模な海賊集団の連合行動が起きるようになっていったのです。
そこで、先の伊予国喜多郡の不動米の略奪事件の話にもどります。
続く