藤原純友の乱と日振島の財宝伝説 blog

天慶年代 東の平将門の乱とほぼ同時期 時の律令国家に反逆し瀬戸内海・豊後水道で乱を起こした藤原純友の歴史とその財宝伝説を研究しています。最近、藤原純友の根拠地といわれた愛媛県宇和島市沖合いに浮かぶ日振島で新たにいろいろなことがわかってきました。純友の歴史研究をたどりながら、純友の財宝伝説に迫っていきます。

歴史史料から消えた純友集団、空白の五か月間

さて、今回は 純友の乱の中で非常に注目される 空白の期間について検証していきます。

 天慶三年八月以降、政府と対決する決意をした純友はその配下集団とともに、行動をともにし西瀬戸内海に移動して行ったが、純友集団の動きで非常に注目すべき空白の期間が現れます。

 それが、天慶三年十一月七日の周防鋳銭司襲撃・十二月十九日土佐国幡多郡襲撃以降、翌年の天慶四年五月十九日、小野好古の「賊徒が大宰府内を慮略(りょりゃく)した旨」の報告までの乱の関連記事が消えてしまうことである。

 つまり、この約五か月の間の空白の期間、純友とその集団は一体どこにいたのか?どう移動したのか? が問題となるのである。

 純友集団は天慶三年十一月七日 周防鋳銭司を襲撃し当時、日本で製造されていた貨幣(銅銭)を根こそぎ奪っている。おそらく移動中の資金源にするということと、律令政府の通貨流通を一時的に遮断し、行政機能をマヒさせる目的があったものと考えられる。

 そして、この時代の貨幣というものは、銅銭の鋳造技術も低く精製が不良で、まだその信用性も低く、物資の取引は主に物品貨幣(米や絹、材木資材、陶磁器類、食料、海産物など)による物々交換が主流の時代であったが、銅銭はその携帯性の利便さにより周防鋳銭司のものや渡来銭が物品貨幣の代用としても使われていた。

 そのような貨幣背景のもと、

 まず純友集団の移動において非常に重要なことは、まず東瀬戸内海から政府軍や国衙との戦いでは当然、負傷者も出ていたであろうし、最も重要なことは移動中や潜伏中の純友集団の食料をどうしたのか?ということである。しかも真冬に差し掛かっており燃料などの防寒対策も必要である。

 実は、歴史学会においてもこの歴史史料から消えた純友集団の空白の五か月間の説明が非常に不明確で漠然としている。

 特に純友集団が周防鋳銭司を襲撃してから後の説明がはっきりしていないのだ。

 周防鋳銭司からそのまま大宰府に向かったという見方もあるが、はたしてそうだろうか? 純友にとっては知っている大宰府であっても、純友集団にとって全く見ず知らずの土地であり、しかも東アジア貿易の拠点となっている警備のきびしい大宰府にいきなり出向いていくことが常識的だろうか?

 しかも先にあげたように五か月間の食料の調達もなく、周防鋳銭司で奪った貨幣で食料を調達するとなれば、そこで居場所を知られることになる。けが人の対処はどうする? 西瀬戸内海の反政府勢力の海賊・海民を結集させるにも時間が必要だ。

 歴史史料上に、この空白の五か月間の動向が現れていない以上 こうしたことが、今もまだはっきりと歴史学会では説明できていない。

 だから藤原純友の文献においてもこの空白の五か月間を根拠をもって説明しているところは見当たらない。

 一方、周防鋳銭司が襲撃された後、十二月十九日 土佐国幡多郡が襲撃されていることが唯一歴史史料上残されている。

 この土佐国幡多郡の襲撃に純友の名前が見えないことから、豊後水道側に純友集団は下りてこなかったと考える説もあるが、根拠に乏しいのではないだろうか?

 先に挙げたように純友集団が移動する中で、冬季にさしかかり、どうしても集団の体制を整え、西瀬戸内海の反政府勢力を結集する時間が必要だったはずである。

 その点、大宰府を目指すために年明けの春先の3月ごろまで潜伏するのに日振島は理想的である。日振島とその周辺は古来から歴史上、伊予と豊後をつなぐ情報と物資の架け橋となっており、冬季は海が荒れ容易に敵を寄せ付けない天然の要塞の島なのだ。

 しかも純友の居所が知られては困る。

 そうして、五か月分の食料の確保が必要である。おそらく食料確保のために穀倉地帯の土佐国幡多郡を襲撃したのではないだろうか?

 数回の戦で、奪ってきた財貨もみな大宰府に担いでいくわけにはいかないから、保管隠匿場所も必要だ。

 こうしたことを考えると、はたして周防鋳銭司を襲撃してから、直に大宰府に向かうことが現実的な説と言えるのか?

 おそらく周防鋳銭司襲撃から一旦純友集団の体制を整えるため、三崎半島を南下し、日振島とその周辺に少なくとも年明けの2月ごろまで潜伏し豊後の反政府勢力結集と大宰府侵入と東アジア交易集団との交渉の準備をしていたのではないかと考えるのである。

 こうしたことが、純友集団が日振島とその周辺に乱の最中に奪った財貨を日振島に持ち込んだのではないかと推測する根拠になっているのである。

 また、純友の財宝伝説をめぐっては、伊予の掾の時代に集めたものや、紀淑人と日振島の海賊を争うことなく平定してからの数年間に集めたものなどもあったものと考えられるがその所在も全く不明である。

 紀淑人と組んで伊予国を治めていた数年間、純友は宇和郡の荘園である宇和荘を任されていたのではないかとの見方の文献も近年見受けられ、その時期 日振島は純友にとって宇和郡の物流を監視する拠点になっていたのではないだろうか?

 歴史史料に乏しい純友であるが、近年のこうした状況証拠の積み重ねから、再び日振島の意味について再考していく必要が出てきているものと考える。

続く