藤原純友の乱と日振島の財宝伝説 blog

天慶年代 東の平将門の乱とほぼ同時期 時の律令国家に反逆し瀬戸内海・豊後水道で乱を起こした藤原純友の歴史とその財宝伝説を研究しています。最近、藤原純友の根拠地といわれた愛媛県宇和島市沖合いに浮かぶ日振島で新たにいろいろなことがわかってきました。純友の歴史研究をたどりながら、純友の財宝伝説に迫っていきます。

財宝は日振島に持ち込まれた?

 

 さて、今回から 翌天慶四年からの政府軍の反撃と空白の五か月の問題、純友集団の大宰府への侵入、その目的について述べていく。

天慶三年の純友集団の西への移動の後、年が明けて天慶四年(941年)になるといよいよ政府軍の攻勢が強まってくる。

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「北山抄(ほくざんしょう)」天慶四年1月15日条には 「純友のことを決定するために、御前に所卿を招集した」とあり、ここで純友本人を追討することを政府が決定したと考えられる。

一月二十一日には伊予国より讃岐国で活動していた前山城 掾 の藤原三辰が伊予国で逮捕・処刑されたとの報が入り、その首が京へ届けられる。

二月には讃岐国の海賊を政府軍が撃破、そのまま伊予国へ進軍していく。

二月九日には、讃岐国より「兵庫允宮道忠用(みやみちのただたか)・藤原恒利(つねとし)らが伊予へ向かい、頗る賊類を撃つ」と報告され、二月中に東部瀬戸内海地域が政府軍の支配下に入る。

 先に述べたように、天慶三年六月の純友士卒追捕の決定以降、純友の反政府集団は、 同年八月以降の伊予・讃岐・阿波・紀伊での行動と、同年十月以降の安芸・周防・土佐・大宰府という二つの集団に分かれて活動しており、純友は後者の集団とともに移動していたものと考えられる。

そうして翌年の天慶四年二月中には、政府軍がこの東瀬戸内海側の反政府集団を鎮圧したことがわかる。

この東瀬戸内海の反政府集団を政府が鎮圧したのには、純友集団の中から純友の側近だった藤原恒利(ふじわらのつねとし)が政府に寝返えったことも大きかった。

藤原恒利は主に東瀬戸内海を中心に活動していた海賊と考えられており、海賊集団の隠れ家や海道を熟知していたものと思われ、政府軍の攻勢を有利なものとなる。

その後、五月十九日までの三月・四月には純友関係の記事が見られなくなるのだが、おそらく純友は博多津から大宰府へ進軍して西国・東アジアの交通・交易集団と反撃のための交渉を続けていたのではないかとも考えられている。

ということは、周防鋳銭司を襲撃したのが、天慶三年十一月七日、土佐国幡多郡が襲撃されたのが、十二月十九日 それ以降 天慶四年五月十九日までの純友集団の動きが不明である。三月・四月に純友集団が博多津から大宰府へ進軍していたとすれば、周防鋳銭司襲撃の十一月七日から翌年の三月までの約4ヵ月間、純友集団は一体どこにいたのだろうということが大きくクローズアップされてくる。

 周防鋳銭司から土佐国幡多郡までの間の豊後水道には 日振島 がある。純友集団は冬季の間海が荒れ、容易に敵を寄せ付けない日振島とその周辺に一時潜伏し博多津・大宰府へ向かうための体制を整えていたのではないのか・・・・? 

 ここで現実的な純友集団の移動についてもう一度考えてみたい。

 最大の問題は食料なのだ。純友集団の正確な人数は知れないが、純友追討記に 大宰府の決戦で「官軍、賊船に入りて、火をつけ船を焼く。凶党遂に破れ~取り得る所の賊船八百余艘。矢にあたりて死傷するもの数百人。官軍の威を恐れ海に入る男女あげてかぞうべからず・・・」とある。こうしたことから数百人は純友に同行して移動しているものと考えられる。仮に少なく見積もって百人での移動としても、周防鋳銭司襲撃から大宰府進軍までの約4~5か月分の食料は一日一食としても150日で、約1,5000食必要なのだ。これをどう確保するのか?周防鋳銭司襲撃で貨幣は確保しただろうが、当時の貨幣は最大の物品貨幣であり食料であった 米 との交換に有効ではない。貨幣の信用度も低く、当時の西日本の食料不足からしても、どこも余裕があるとは思えず、食料同士の物々交換ならいざ知らず、貨幣による交換は難しいと考えられる。 そうなると 米 自体をどこかから略奪するしかないということだ。襲撃して略奪するならば、歴史史料上に現れる。 だから土佐国幡多郡の襲撃がそれにあたるのではないか? 土佐国幡多郡の襲撃こそ純友集団の大宰府進撃までの食料確保のための襲撃ではなかったのか? そのためには、周防鋳銭司襲撃後、三崎半島を通過し、豊後水道を経由して土佐国幡多郡へ移動したのではないか? そうしてその間にある日振島に潜伏したのではないのか?

一方

前回記した「純友追討記」によると、天慶三年八月以降の備讃瀬戸を中心にした海賊活動の中心に純友がおり指揮をとっていたと記されている。こうした記述は純友追討記のみに記載されているものであるが、「純友、国府に入り火を放ち焼亡し、公私の財物を取る也」との記載もある。

・・・・純友、公私の財物を取る也・・・・

そうして、日本で古代唯一の貨幣製造所、周防鋳銭司の襲撃・・・・

穀倉地帯土佐国幡多郡の襲撃・・・・

相次ぐ転戦での負傷者は?冬季の防寒の燃料確保は? 空白の五か月間の食料の確保は? 博多津・大宰府へ向かう準備は? 奪った財貨を博多津までかついでいくことなどありえるのか?どこかに保管されたのではないのか?

そして・・・・、

財宝は 日振島とその周辺に 持ち込まれた?

 

藤原純友 (人物叢書)

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日振島 藤原純友財宝伝説の行方―知られざる宇和海

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