藤原純友の乱と日振島の財宝伝説 blog

天慶年代 東の平将門の乱とほぼ同時期 時の律令国家に反逆し瀬戸内海・豊後水道で乱を起こした藤原純友の歴史とその財宝伝説を研究しています。最近、藤原純友の根拠地といわれた愛媛県宇和島市沖合いに浮かぶ日振島で新たにいろいろなことがわかってきました。純友の歴史研究をたどりながら、純友の財宝伝説に迫っていきます。

東西の反乱

さて、ここで東国坂東の 平将門 の動きも朝廷を驚かし東西の兵乱が始まる。

東国坂東の 平将門は天慶二年(939年)十一月二十一日常陸(ひたち)国府で合戦し国府を占領 その報告は十二月二日には京都に届いている。さらに下野(しもつけ)・上野(こうずけ)国府への侵攻は十二月十一日と十五日で、二十日すぎには、相次いでその情報が京都に入り 京都の貴族たちにも平将門 叛逆 の真相がしだいに明らかになっていった。

常陸国府の占領から一か月後、将門は側近の興世王(おきよおう)の進言にしたがい、自ら新皇(しんのう)を宣言、常陸周辺の坂東を支配し、自分の弟たちを国司に任命し、とうとう独立国家を坂東につくりあげてしまうのである。

二十九日には、京都の公卿が殿上に集結し信濃にのがれた下野・上野の国司からの詳細な報告を受け、驚嘆・動揺するも様々な対策が協議されている。

 しかしその一方で、恐るべきことに、この将門叛逆による宮中大混乱の最中に、朝廷は、先の 天慶二年十二月二十六日、純友の配下であった藤原文元らが、摂津国須岐駅で、備前介 藤原子高 と播磨介 島田惟幹 を襲撃したとの報告を受け、さらに瀬戸内海側でも反乱の動きが出始め、危機感を強めた時の律令政府の最高権力者である藤原忠平は、公卿ら主要貴族たちを集めてその対応策を協議しているのだ。

 東の将門、西の純友 京を挟み撃ちするかのように、東西から吹き付ける叛逆の風の音が吹き始める。

 あまりにもタイミングの良すぎるこの東西の兵乱を純友と将門が共謀して図ったことではないかと恐怖のままに想像する公卿たちは、さぞかし多かったことだろう。

 東西の兵乱にどう対応するか?その内容は明らかになっていないが、翌天慶三年正月一日には、小野好古(おのよしふる)を海賊の追捕使(ついぶし)に任命し、十六日には山陽道「追捕凶賊使」として出発させているが、二十日には海賊が備中を襲い、官軍が撤退したとの報告が来る。海賊軍はさらに侵攻し、二月五日には淡路を襲撃し兵器を奪っている。小野好古には、出発した翌月の二月には 二十二日に純友が海路遡上するとの報告も入るが、好古には それ以上前には進むな!などと指令を出し、瀬戸内海の兵乱の処置に対してはまだ慎重な方針を示している。しかしその一方で同日 京都の東町で不穏な放火によるものと思われる火事が起こっている。さらに二十七日には京都西町が焼けている。

 これに対し二十三日には、政府は山崎川尻の警護使を決定し、二十五日には藤原慶幸が兵士を率いて山崎の関に向かっているのだが、その翌日にはどういうわけか山崎が焼亡している。おそらく純友の影響下にいる配下のゲリラ活動ではないだろうか? 

 そこで二十八日に政府は衛府(えふ)と検非違使(けびいし)に京中の夜行警備を命じており、宮城十四門に兵士を配置している。

 こうしたことより、この時点においては京都事態が純友の配下の侵攻によりきわめて深刻な危機的状況下に置かれていたことが推測される。

このように ほとんど同時に始まった東西の兵乱は、以後長く 純友と将門の共謀説を伝説化させていく。

 十二月二十九日の「本朝世紀」には、純友が将門と「謀(はかりごと)を合わせ、心を通わせ、此の事を行うに似たり」 と記している。将門と純友の事件は勃発した当初より、共謀して起こされていたのではないか?との疑惑の目で見られていることがわかる。

 さて、福田豊彦氏は「平 将門の乱」において、「純友追討記」にある記述 「(純友は)遥かに将門謀反の由を聞き、また乱逆を企て、漸く上道せんとす」とある記述が最も正確に事実を伝えていると述べている。

 つまり、純友はこの当時、京都の中でも広く情報網を持ち、十二月早々には将門謀反の報道を早々とつかんでいたと思われ、東西の反乱蜂起のタイミングを合わせていたものと考えられている。 将門に追放された上野介藤原良範は純友の叔父なのだ。 

 「純友が巨海に出ようとしている」との報告が伊予国から来たのが、十二月十七日であるから、将門の反逆の情報が純友の元にも入ってきたため、純友は、いよいよ事を起こすことを決断したものと考えられる。

 さて、その後、翌天慶三年一月二十日には摂津須岐駅襲撃事件に関して政府は驚いたことに、藤原子高らを襲撃した張本人の藤原文元らの罪を不問とするばかりか、さらに政府の役人として任官するとしているのである。

 そしてこの日には、ちょうど「西国の多数の兵船が備中軍と戦い備中軍が敗走する」との報告が入り、「西国の兵船」と備中軍(政府軍)との戦闘が行われたことがわかる。

 なぜ政府は藤原文元を任官しようとしたのか?どうも政府は文元の摂津須岐駅襲撃事件は藤原子高との個人的な私闘の問題として重視せず目をつぶり、それよりも、東国の将門の反乱の対応を重視し、瀬戸内海側の西国の兵船など瀬戸内海側の反乱圧力を抑えるために藤原文元らの軍事力を利用しようとしたようだ。また文元らを政府側に取り込みその軍事力を東の平将門の乱の鎮圧に振り向け利用することを考えていたようだ。

 一方、純友と西国の兵船との関係は史料にはっきりとあらわれておらず、不明である。これは、一方で東国の将門の乱に便乗しようとした海賊の独断の行動ではないかとの見方もある。

 この時期、まだ純友は明確に政府に対して反乱する行動をとっておらず、政府側との情報戦・心理戦をしていたものと考えられる。純友はジワジワと京都の政府の首をしめるように配下の放火などにより社会不安を醸成させていく。

 政府側は、この東西の反乱を鎮圧するのに、兵力を東西に分散したのでは勝ち目はない。そこで、純友の本心・要求をさぐるべく、政府は純友と交渉を始めることになる。

続く

 

藤原純友 (人物叢書)

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日振島 藤原純友財宝伝説の行方―知られざる宇和海

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平将門資料集―付 藤原純友資料

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平将門の乱 (岩波新書)

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物語の舞台を歩く 純友追討記

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摂津須岐駅襲撃事件

さて、承平六年(936年)六月に西瀬戸内海の海賊の追捕に派遣された純友は、伊予国守紀淑人とともに海賊を服属させることに成功し、その後も純友は伊予国に留まり 淑人とコンビを組んで、伊予国と西瀬戸内海の治政・治安を維持していた模様です。

 これより純友は、前の伊予の掾の時代に海賊・海民たちと築いたつながりと、今回の海賊服属成功により、その後の藤原氏の一門として西日本流通経路の要である瀬戸内海の海賊・海民たちの信頼を得、カリスマ的指導者として成長していったものと思われる。

 海賊・海民たちの希望の星となっていった理由は、おそらく瀬戸内海流通の仕事と生活圏の保障ではないだろうか。そうして早い時期に大宰府を通じた東アジア貿易への参入による新たな西瀬戸内海交易の民間開放があったのではないか?

 この936年の海賊服属成功の史料より後、しばらく中央の記録史料から海賊関係の記述がみられなくなる。こうしたことは、次の行動に移る前までに、純友の組織力が徐々に水面下で構築されつつあったことを示唆している。

 そうして 次の行動 が先の伊予国からの訴状 「純友が巨海に出ようとしている」 から始まる。

 海賊服属からおよそ3年後の天慶二年(939年)、長門国の報告史料などで、「天慶二年春初より凶賊乱盛、往還たやすからず」とみえ、9月には南海の乱行に対して、朝廷は祇園社にて祈祷(きとう)をさせる記事も見られ、ふたたび西瀬戸内海が荒れてくる。

 その理由は、西日本ではこの年、前年来の洪水と飢饉(ききん)により疫病が流行、餓死者も多く米価が急騰、盗賊が京に横行し四月には大索(おおあさり)と呼ばれる大捜索が行われたりしている。

 こうした社会情勢が危機的な時期に十二月十七日伊予国から「純友が船にのって海上に出ようとしている」との報告が届き、二十一日には純友の京への召還の官符が中国地方の諸国に下されるのである。

 そうしてこの二十六日に純友の従者である藤原文元らによって備前「介」であった藤原子高が襲撃を受けるという事件が起るのである。

 その場所は、日本記略では「摂津国須岐駅」、純友追討記では「摂津国?原(うはら)郡須岐駅」本朝世紀では「摂津藁屋駅家辺」としている。つまり西宮の西を芦屋灘に入る宿川(すくかわ)の辺り、現在の兵庫県芦屋市にあった山陽道の駅家葦屋(あしや)駅」と推測されている。純友の勢力は当時、このように大阪湾深く、ここまで及んでいたようだ。

 丁度この時期、東国で平将門が謀反を起こし新皇を称し独立国家を宣言したとの報告が京にもたらされており、朝廷は驚愕し、将門と純友が東西で共謀して謀反を起こしたのではないかと恐れている。

 天慶2年(939年)12月、純友は部下の藤原文元に備前介藤原子高と播磨介島田惟幹を摂津国須岐駅にて襲撃させ、子高の鼻を削いで捕らえ、妻を奪い、子供らを殺したと言われるが、これは純友が指図してのものかどうかはわからない。

 文元らによる子高一族の凄惨な襲撃の原因にあるのは、子高ら自らが同様なことを民衆にしていたからではないかだろうか?

 さて、備前介藤原子高はなぜ襲撃されたのだろう?単なる民衆の恨みだけによるものではないことが推測されている。

 この子高襲撃事件については純友の乱に関連して、さまざまな推測がなされているのである。

 純友追討記の記載に 「子高、その事を風聞し、その旨を奏聞せんがために、妻子を相具(あいぐ)して陸より上道す。」とありこの記事によると、京都の連夜の放火事件が純友の士卒によるものであることを任国備前岡山県・国府は岡山市)で風聞した子高が、これを政府に報告するため上京する途中、その動きを知った純友が部下の藤原文元を使って襲撃した という見方が一つある。

 こうしたことからも、その当時で純友の士卒は京から瀬戸内海沿岸諸国に広範に配置され、細部まで情報網が張り巡らされていたことがわかる。

 しかし、近年ではこの純友追討記の 「その事を風聞し、その旨を奏聞せんがために」の「その事」と「その旨」の内容に新たな見解が出てきている。

 それは、純友が京への侵攻を狙っていたのではなく、先の天慶二年十二月十七日の伊予国からの報告にある 巨海に出ようとしている の 「純友と配下の海賊集団の東アジア進出の意思」 ということにあるものと推測されている。

 さて、先にもあげたとおりこの時期 実は東国においても律令政府をゆるがす大きな事件が起っていた。それが周知の通り常陸国府、上野国府 下野国府を次々と陥落させ、ついに 東国坂東における 新皇就任 を宣言した平将門の乱 である。

 偶然からの二つの乱のほぼ同時期の勃発であるが、ほぼ同じ時期に勃発した乱のため 純友と将門の共謀説がまことしやかに伝えられ伝説化した。

 しかし、偶然とはいえ 純友はこの平将門の乱を自らの東アジア進出の目的のためにこの事件の後も、大いに利用していたことが推測される。

 いずれにしても、これまでの純友の行動に関しては、平将門とは大きく異なっている。というのも、平将門が政府に対する明確な反逆として行動してきたのは、国府襲撃からであり それも彼自身の私闘の延長としてなりゆきにまかせて国府を焼いた行動から、その後 新皇就任後も目指したところがおおむね関東での自立国家樹立であり、新皇宣言後の具体的な国策をまったく持っていなかったことに対し、純友のそれは、当初から巨海進出、つまり東アジア交易への参入を目指すというグローバルな国策を持ち、その目標のために政府との交渉を有利に進めるため、京都周辺から全瀬戸内海に部下を配備していることがわかる。京都への連夜の放火はおそらく、社会不安の醸成(じょうせい)を狙った、政府との交渉の第一段階なのだろう。純友の組織には、前の山城「掾」であった藤原三辰なる人物がおりこうしたことからも京都への圧力がかけられたのだろう。

 純友は、東国での平将門の謀反をいち早く情報としてキャッチし、これを政府との交渉の好機と判断したとみて差し支えないだろう。いわば、律令政府との情報戦の様相を呈している。

 将門と純友は性格も、ものの考え方も好対照で面白いが、本当にこの二人が連絡を取り合って同時期に反乱を起こしていたら歴史がまた大きく違った展開を見せたかもしれない。

 将門の反乱はなりゆきまかせの素朴さ、純朴さ、泥臭さが感じ取れるのに対し、純友の反乱は、非常に計画的であり、緻密であり、現代的 福田豊彦氏の表現で言えば 都会的 なのである。

 さて、天慶の乱平将門の乱藤原純友の乱)は、いよいよこの後、東西の同時兵乱となって時の律令国家を大きくゆるがしていく。

続く

 

藤原純友 (人物叢書)

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日振島 藤原純友財宝伝説の行方―知られざる宇和海

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物語の舞台を歩く 純友追討記

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平将門の乱 (岩波新書)

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純友の乱の核心、「純友 巨海へ出んと欲す」

さて純友が伊予国日振島で、豊後水道宇和海の海賊・海民を集めての決意表明・政策演説をした後、約3年歴史史料上から大規模な海賊活動の記録が消えています。

そうして、3年後の天慶2年(939年)突如 伊予国である騒動が起き、伊予国より政府に報告が入ります。

その騒動とは、「藤原純友が髄兵を率いて巨海へ出ようとして国が騒然としている。伊予国守 紀淑人が制止しようとしても純友はいうことをきかない。早急に純友を京へ召し上げて(召還して)ほしい。」という報告です。

純友が突如として何かの行動を起こし始めていたことがこの報告からわかります。そうして純友を京へ召し上げる(召還)する という記述から 追討 ではなく京へ呼び戻して、まあ説き伏せなさいという意味のようで、ここではまだ政府への敵対という意味合いにはなっていないようです。

ここで問題となるのは 巨海とはどこか? ということと なぜ巨海へ出ようとしたのか?の二点です。

この行動は 本朝世紀天慶二年十二月二十一日条の「純友、髄兵を率い巨海へ出んと欲す」にも記載されており、その行動が非常に問題視されていることがわかります。

歴史学会上では、この 巨海 が常識的に考えて 東シナ海 と考えられており、どうやら純友が中国や朝鮮との交易に参入しようとしているものと推測しています。

当時、中国など東アジアの交易は東シナ海を経由して日本の朝廷のみの独占交易が行われており、交易品の物流は東シナ海大宰府を通して、瀬戸内海を経由し京都につながっており、この交易を政府が独占することで、朝廷は莫大な利益をあげていました。

ということは、政府の独占によって瀬戸内海の物流もまた政府が全支配権を握り、政府のみが利益を独占する方向で進められていたものと思います。

しかしこのような独占がすすめば当然のことながら、瀬戸内海の海事や流通を行う人民にとってその生活圏や仕事の確保が脅かされることになり、こうしたことが全瀬戸内海の海民や海賊の猛反発を買う原因や勢力争いになっていったのではないでしょうか。

また、当時は東アジアとの間で公式な交易の他にも、当然のことながら膨大な密貿易も頻繁に行われていたようで、こうした流通も瀬戸内海で増大しているようで、当然政府との間でその勢力争いが激しくなってくる。

こうした事情により、誰かが、政府と全瀬戸内海の海民・海賊たちとの間に立って、全瀬戸内海の流通の取りまとめをしなければならなくなる状況が生まれてきていたのではないでしょうか?

そして、政府の全瀬戸内海の物流の独占支配と搾取政策が続くことにより、この独占政策を変えていかなければ、瀬戸内海の海賊活動や抵抗が収められなくなる。おそらく純友が政府の方針に反してまで巨海へ出なければならなくなったのは、瀬戸内海の治安を守るのにその限界が近くなり、東アジア交易への民間参入など、何らかの行動に出て政府の方針を改革させざるを得ない状況になっていたのではないかと思います。

こうしたことが、純友を巨海への進出の行動に移させた背景として考えられると思われるのです。

政府の独占貿易の一端を崩し、全瀬戸内海の人民たちに生活や仕事の場を分け与えることが、瀬戸内海の海賊活動や政府との対立を解決していく政策として必要だったのではないでしょうか?

しかしここで、純友が巨海に出るということは、政府の独占交易の政策に反する行動ということになり、伊予国で政府側の最高責任者である 守 の紀淑人との間で政策的な相違が出たため伊予国で騒動になったものと思われます。ただ、紀淑人とはあくまでも政策の相違という中での問題であり、対立ではなかったようで、それはこれ以後も純友が明確に政府に敵対する状況になるぎりぎりまで、紀淑人は純友をかばい続けていたことからも推測でき、こうしたことから貴族社会の栄華を続けようとして行き詰る律令政府の国策への矛盾に対する改革への意思が、純友の行動の根本にあるように思えます。

純友は、長らく反逆者の汚名を着せられてきましたが、近年 こうした改革の先駆者だったのではないか?との見方が強まってきており、先の本朝世紀にあるような 巨海に出んと欲す の記事が藤原純友の乱の本当の目的であったということが認識されつつあります。

いずれにしても、純友はこの後、巨海への進出をめざして政府と交渉を行っていくことになります。そうした過程で、純友は 瀬戸内海の乱 と 偶然勃発した 東国(坂東)の 平将門の乱 を利用し息詰まる政局で律令政府を追い詰めていくことになります。

この後、純友が大宰府にまで向かう動きを見ていくと、この純友の計画はおそらく日振島での決意表明以来、非常に用意周到に計画されていたものとして解釈され、単なる感情的な行動とは全く異なり、純友の明確な国家政策を実行に移すための戦略性を持っており、純友が古代における官僚としてとびぬけた資質と実行力を持った人物であったことが伺えるようになります。

そうして次章では、まず 純友が巨海に出ると宣言した後、間を置かず勃発した 摂津須岐駅襲撃事件から天慶の乱にいたるまでの政局についてお話します。

 

日振島 藤原純友財宝伝説の行方―知られざる宇和海

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藤原純友 (人物叢書)

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藤原純友の乱

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物語の舞台を歩く 純友追討記

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平将門の乱 (岩波新書)

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純友 日振島へ

さて、日本記略 承平六年(936年)六月某日条 に記載されている記事 「南海賊徒の首藤原純友、党を結び、伊予国日振島に屯集し、千余艘を設け、官物私財を抄却す、ここに紀淑人をもって伊予守を任じ、兼ねて追捕のことを行わしむ」とあります。

 そうしてこの記事の後に、日振島・宇和海周辺の海賊集団の首領であった 小野氏彦 紀秋茂 津時成 など三十余人、総勢約二千五百人ほどであったといい その後彼ら投降してきた者たちをに伊予守として赴任してきた紀淑人(きのよしと)が衣食や田畑・種子を支給して農耕に就けさせることに成功したという内容の記事が続きます。

 つまり承平六年 純友は紀淑人の赴任に先だって、伊予国に着くとまず日振島に出向いて、西瀬戸内海の海賊活動の原因となっている日振島を中心にした宇和海の海賊の取り締まりに当たったということが推測されます。

 しかし、いくら武装集団を用いて出向いたとしても、海賊のホームグラウンドで追討することは賢明な戦略ではないはずです。実際、この日振島での取り締まりで、純友軍と宇和海の海賊との間で戦闘はなかったものと考えられています。

 では、なぜ戦闘にならなかったのでしょう?

 そこで問題となるのが、先の日本紀略の 「伊予国日振島に屯集し、千余艘を設け」の部分なのです。この部分の解釈は現在、日振島に千艘もの船を集めることは現実的でなく、おそらく宇和海一帯の西瀬戸内海に出向いて海賊活動をしていた海賊が一同に集まったものと考えれております。

 つまり純友は伊予国に赴任して日振島に来たときに、宇和海の海賊を日振島に招集したものと思われます。そうしてそこで、、純友が反政府側の海民や海賊に 西瀬戸内海での海賊活動を控えさせるために、何か交換条件というか、豊後水道や瀬戸内海での将来的な政策目標を掲げ、集まった海賊・海民たちの目の前で決意表明をしたことにより海賊や海民たちが、過去に伊予国で実績のある純友を信用し その後の紀淑人の海賊投降の呼びかけに応じたのではないだろうか。

 しかし、その一方で、紀淑人が海賊を投降させ農業に就かさせたという記述は、実に疑わしい。海の仕事に従事する海民や海賊たちに、仕事を変えて明日から農業をやりなさいなど現実的にやれるわけがない。

 そこでおそらくは、純友の管理下に妥協した海民や海賊たちが、何か純友が行動を起こすまでおとなしく待っているというところが実際だったものと思われるのです。

 そうして、純友の日振島での決意表明は、瞬く間に海の海民や海賊の非常に速い情報伝達のネットワークを介して豊後水道、全瀬戸内海へと広がっていったものと思われます。

 いずれにしてもこの後、数年は大きな海賊活動が歴史資料上に見えなくなったので、一時的に朝廷の純友への命令が成功し、一見沈静化したように見えたのですが・・・。

 そして、三年後の天慶二年(939年)十二月十七日、いよいよ後の藤原純友の乱の目的のすべてを物語る報告が、伊予国から明らかになります。

続く

 

藤原純友 (人物叢書)

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日振島 藤原純友財宝伝説の行方―知られざる宇和海

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藤原純友の乱

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物語の舞台を歩く 純友追討記

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純友登場 海賊鎮圧のため伊予に向かう

 さて、先の喜多郡不動米略奪事件の約一年後の承平六年三月某日、歴史史料上に初めて藤原純友の名前が現れます。

その記載は、 吏部王記(りほうおうき)の記載で承平六年(936年)三月某日に この日、前伊予掾 藤原純友が、党を聚めて伊予国に向かい、「留連河尻 掠内」 (港の内) 河尻に船を留めるとあります。

 さらに、少し記録の年月が進みますが、本朝世紀(ほんちょうせいき)の記載で天慶二年(939年)十二月二十一日条に 前掾藤原純友、去る承平六年海賊を追捕すべきの由、宣旨(せんじ)を蒙る(こうむる)。以下省略。

とあり、

まず藤原純友本朝世紀の記載により、承平六年に伊予国を中心とした西瀬戸内海の海賊を取り締まる命令を朝廷より受けていることがわかります。

ついで、吏部王記の記載により、

海賊の取り締まりの命令を受けた純友が、いよいよ平安京から伊予へ「諸家兵士」を率いて向かったのです。つまり京を出発して、三国川河口(現尼崎市今福)に位置する「河尻掠内(港の内)に留まって、おそらく伊予でいっしょに仕事をする武装集団の仲間を募っていた模様なのです。

後に述べますが、このとき畿内周辺で集めた武装集団の中に、後の純友の幹部となる 藤原文元 文用兄弟 藤原三辰 三善文公 紀文度 らが存在していました。

ここで、承平年間に活発化した瀬戸内海の海賊活動は、9世紀のような一海域に限った海賊活動ではなくなり、全瀬戸内海に拡大しつつあったことが推測され、律令政府は、純友が伊予国に向かう前後に、後に純友とコンビを組んで伊予国を統治する知事的立場の「守」(かみ)に紀淑人(きのよしと)を任命し、藤原純友伊予国に派遣していることは、瀬戸内海の海賊活動が伊予国を中心に存在していたことを物語っており、政府にとってこの時期の西瀬戸内海の交通・交易圏の海賊活動が最大の問題であったことを推測させます。

西瀬戸内海に問題があるということは、

日本記略(にほんきりゃく)承平六年六月某日条に記載されている 「 南海賊徒の首藤原純友、党を結び、伊予国日振島に屯集し、千余艘を設け、官物私財を抄劫す。紀淑人を以って伊予守に任じ、追捕の事を兼行せしむ。 」

により、伊予国日振島が海賊集団の根拠地のひとつであったことも推測させ、そこから、豊後水道、三崎半島を経て、西瀬戸内海の入り口である 伊予灘周防灘 海域の交通の安全を確保することが目的のひとつであったことをうかがわせるのです。

そうしてその後、純友は伊予国に到着すると、まず問題解決のためか?、日振島に向かいます。

ちなみに当時の伊予国の国府(現在でいう県庁)は、現在の愛媛県今治市周辺付近にあったものと考えられております。しかし、国府に最初常駐するのではなく、さっそく伊予国愛媛県)の南方にある宇和海の日振島(現宇和島市日振島)に出向いて行っているのです。

続く

 

藤原純友 (人物叢書)

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日振島 藤原純友財宝伝説の行方―知られざる宇和海

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藤原純友の乱

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物語の舞台を歩く 純友追討記

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「承平南海賊」事件と伊予国喜多郡不動米略奪事件

さて、先に述べたように9世紀の海賊と10世紀の海賊は、その海賊の構成に違いがありました。そうして、9世紀から10世紀に移り 承平年間の承平元年(931年)~承平六年(937年)頃には、瀬戸内海の海賊の活動がふたたび頻繁に起こってきます。この期間の海賊活動がいわゆる 「承平南海賊事件」 と呼ばれるもので、これが天慶年代に入っての藤原純友の乱につながる導火線的な海賊活動となっています。

 その海賊活動の理由は、先に述べているようなことのほかに、10世紀の承平・天慶年代になると瀬戸内海の物流も非常にその量が莫大なものとなり、政府は税の海運などのほかにも、大宰府を通じた東アジア貿易の独占をしており、水運の需要が爆発的に拡大してきます。

 これより、大量の水手集団(いわゆる海運に従事する海民)が必要になり、その海事の利害関係、勢力争いをめぐっても瀬戸内海各地で頻繁に対立が激化してきていたことがわかります。

 こうしたことが、瀬戸内海各地で頻繁に海賊活動が激化してきた原因となっていたようで、その対策に有効な手立てが講じられないままきているところに、承平四年の冬 伊予国喜多郡(現愛媛県大洲市あたり)の官庫から三千余石の不動米が盗まれるという事件が起こります。ここでいう不動米とは政府の許可がおりないと出せない非常用のために備蓄された米のことです。

 その盗まれた量は、現代でいうと三千俵以上にものぼったようで、おそらく千人規模の集団で襲って持ち去ったと推測されています。

 しかし、不自然ですね。数人でこそっと盗みにくるのなら目立ちませんが、堂々と千人くらいでやってきて、どっと持ち去ってしまうとは、だれが見たっておかしい。これだけ大規模に人が押し寄せてきたのに、国司たちは抵抗もせずに一体何をやっていたんでしょうねえ?不思議なことにこの事件で処罰された者や国司の名前が歴史上に見えてこない。

この事件、裏に何か思惑のありそうな、胡散臭い(うさんくさい)状況です。

 察するところ、承平南海賊が瀬戸内海各地で暴れまわっているどさくさにまぎれて、この不動米の略奪に手を貸した、あるいは便乗した、ひいては入念な計画をたてて指揮した者がいたんじゃないでしょうか?

古代は米が、お金に代わる重要な決済手段の一つであり、なおかつ食料でもあったので、この事件に関与していた者は莫大な資産を手にいれたということを意味し、あるいはその米が広く人民に分け与えられたりしたら、この事件の首謀者は、瀬戸内海各地の人民の命の恩人ですね。さぞかし感謝され人望が高まったことでしょう。

 一方、政府側からすれば、この事件の首謀者は海賊・賊徒であります。しかし、もしこの首謀者が政府側の者であったとしたら・・・・。

 政府側は、国司の中のあいつが あやしい! とは思っていたとしても、明らかな証拠でもなければ、その者は 海賊である一方、官僚でもあるという相反する立場を同時にもった人物ということになってしまう。

そして、この事件に藤原純友が関与していたかどうか?それは謎のままでありますが・・・。歴史資料上には出てきませんが、この事件の前後に、純友はどうやら伊予の掾としての任期を終え、京に一旦帰っていたようです。

そうして この事件の約一年後に初めて 藤原純友 の名前が歴史上に登場してきます。

 

 

藤原純友 (人物叢書)

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日振島 藤原純友財宝伝説の行方―知られざる宇和海

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藤原純友の乱

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海賊の発生と9世紀10世紀の海賊の違い

>承平四年の冬には伊予国喜多郡で三千余石という莫大な米が官の蔵から略奪される事件が起こったのです。

さて、10世紀(900年代)の承平年間になると、海賊の活動が瀬戸内海で活発になり、その顕著な例として承平四年の冬 伊予国喜多郡で三千余石という莫大な米が官の蔵から略奪されております。

この事件を検証する前に そもそも瀬戸内海で海賊はなぜ発生したのか?を知っておく必要があるのです。

そうして9世紀ごろ発生した海賊と10世紀ごろの海賊は、同じ海賊でもその質が異なってくるのです。

まず9世紀頃発生した海賊とは、どのような原因で発生したのでしょうか?

9世紀ごろの律令国家制度のもとでは、政府は各地方より主に米や塩など地方で生産される産品を税として徴収していました。

ところが、まだ未成熟の日本にあって、その税徴収の体制は未熟であり、それまでの律令体制が崩壊しつつあり、律令政府が地方に派遣した役人である国司たちは、悪政をするものが多く、ワイロなども横行。さらに特権階級の貴族や有力寺社、豪族などによる主に塩田の掌握を中心とした瀬戸内海沿岸地域の荘園化や私領化が広がってきました。

なぜ広がってきたかというと、地方の人民が律令政府の過酷な税の徴収から逃げるために、自分達のところでできた産物を地方の有力者たちに一定の量 差し出すかわりに自分達の土地はその地方有力者の土地ということにしてもらうようにしていったからです。

だから地方官の国司や郡司が税金を徴収に行っても、その土地が生産者たちの土地でないという建前があるので 税金がとれない という事態がふえていた。

呈のいい脱税が全瀬戸内海で横行していたんですね。

さらに政府の過酷な徴税から逃れるために、逃げ出して浮浪化する人民もふえたりする。

そうしてどんどん税でとれるところが少なくなって とれるところからはさらに重い税をとるようになり、さらに人民が逃げ出したりする・・・悪循環ですね。

こうして逃げ出した人民が、食うや食われずから海賊化していく。

そうして九世紀の海賊の特徴としては、「追いかけりゃカラスが散らばるように逃げていく、警戒をゆるめるとまた集まってくる」などと表現されるように海賊の行動は不規則で予測しにくい バラバラの単一行動をとる海賊が中心でした。

こうした単一行動をとる海賊に対して政府は 武芸にすぐれ盗賊対策に使われていた浮囚(ふしゅう)つまり帰属した蝦夷(えみし)や勇猛果敢な武芸達者な浪人などプロの傭兵集団をやとって瀬戸内海を警備させなんとか沈静化させていました。

ところが、承平年間に入るとまた海賊活動が活発化してきたのです。

近年、この9世紀と10世紀の海賊の本質に違いがあるようだということがわかってきており、承平年間の海賊は 浮浪化した海民も大なり小なりいたでしょうが、その中心はどうもこれまで政府が地方の豪族や有力な家系から雇っていた衛府舎人(えいふとねり)に移ってきているようなのです。この衛府舎人 8世紀ころまでは、平たく言えば、政府の中でいわば護衛隊をやっていた者たちで、政府は外国 おもに新羅渤海 蝦夷に権威をふるっていたんですね。こうした衛府舎人は 免税特権 を与えられていました。

今の北朝鮮がたびたび軍事パレードをやるように、日本の律令国家も国威をアピールしていたわけです。

しかしこうした護衛隊を雇っていると、莫大な経費もかかるわけで、やがてわざわざ国威を示さなくてもいいような時期になると このいわゆる護衛隊を政府はリストラしはじめた。

リストラされた衛府舎人は、おのおのもとの地方に帰っていくしかない。

しかし、そこで今度は政府や国司たちから 税を徴収される側になってしまうわけです。

これに反発した彼らは、免税特権の既得権がある!という建前で抵抗していましたが、承平年間に入るとそれもまったく認められなくなったようで、各地で国司と争いが激しくなり、場合によっては集団で海賊化し略奪を始めるようになっていくのです。

このように9世紀の海賊がバラバラの単一行動をとっていたのとは異なり、10世紀になると瀬戸内海では大規模な海賊集団の連合行動が起きるようになっていったのです。

そこで、先の伊予国喜多郡の不動米の略奪事件の話にもどります。

続く

 

藤原純友 (人物叢書)

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