藤原純友の乱と日振島の財宝伝説 blog

天慶年代 東の平将門の乱とほぼ同時期 時の律令国家に反逆し瀬戸内海・豊後水道で乱を起こした藤原純友の歴史とその財宝伝説を研究しています。最近、藤原純友の根拠地といわれた愛媛県宇和島市沖合いに浮かぶ日振島で新たにいろいろなことがわかってきました。純友の歴史研究をたどりながら、純友の財宝伝説に迫っていきます。

その戦いは、改革か? 大宰府累代の財宝はどこに消えた?

>ついに政府と対当して大宰府から東アジア交易集団と交渉し、外国勢力を国内に巻き込んで、政府軍に逆襲する戦略に出たものと思われる。 そうするとそれは、もはや改革ではなく、革命にまで踏み込んだ決起となるだろう。あるいは、大宰府を襲撃したという事実からすると、大宰府に蓄積されている累代の財宝を取引材料として、東シナ海に純友集団を率いて出る準備をしていたのではないだろうか?

 前号からの続きを語る前に、純友集団の西瀬戸内海から大宰府に至るまでの動きを振り返ってみる。松原弘宣著「藤原純友」などの記載を参照すると、「北山抄」天慶四年(941年)1月十五日条に、「純友のことを決定するために、御前に諸卿を招集した」とあり、この時にどうやら純友本人の追討が決定された模様である。

 次に同月二十一日には純友配下で讃岐国で活動していた前山城 掾(じょう) 藤原三辰(ふじわらのみたつ)が伊予国で逮捕・処刑されており、二月中には東部瀬戸内海が政府軍により鎮圧されさらに政府軍が伊予国へ進んでいる。

 その後、天慶四年の三月・四月には政府軍と純友集団との関連記事が消えており、どうやらこの時期に純友集団は日振島とその周辺から九州の反政府勢力らを伴って、博多津、大宰府に潜入し当時九州大宰府を管理下にして鴻臚館貿易をしていた東アジア交易集団と純友が交渉していたものと推測される。

 このことは、背景として 純友と将門 -東西の兵乱ー(愛媛県歴史文化博物館発行)の書籍の中で、松原弘宣氏がこう述べている。

 西瀬戸内海交通・交易に関し、かつ、最終段階で純友が大宰府に向かったことは、大宰府・博多津に本拠を持つ東アジアで交易活動を行っていた集団と連合しようとしたのではないか。そうしたことが、天慶二年十二月の純友の行動を「本朝世紀」が「髄兵を率いて、巨海へ出んと欲す」と記載した理由であり、さらに 越州(中国)系陶磁器の交易圏が西瀬戸内海各地域形成(西瀬戸内海各地で出土している)されていたこともこうした想定を支えるものである。

 こうした理由が純友の乱が起こった根底にあり、中国を主とした東アジア交易が大宰府・鴻臚館から西瀬戸内海を通じて、京都につながっていた。こうした外国との交易の流通経路に瀬戸内海が使われていたことからその交易や流通に民間開放・民間参入の要望が全瀬戸内海で広がっていたものと考えられる。 この民間への交易・流通開放の要望を純友が政府に求めていたことがうかがえるのだ。

 さて、政府軍は天慶四年二月中には伊予国に進みつつあるなか、純友集団は乱の当初の目的である大宰府・鴻臚館に向かい東アジア交易集団との交渉を三月・四月ごろしていたことは、乱が最終段階にきて、政府軍との決戦にそなえ、東アジア交易集団を通じた外国(中国)の軍事勢力を日本に引き込み、政府軍に逆襲することを交渉していたのではないか?

 あるいは、政府軍の追及をのがれ、東アジアへ進出することを考えていたのではなかったか?

 それは、日本の律令制の改革から、ついに諸外国をまきこんだ戦争で、政府を倒し新たな政治体制を構築する革命にまで踏み込むことを意味している。

 そうして、それを実行に移すためには 莫大な資金が必要になってくる。

 中国と連合するために、あるいは東アジアへ出るために 大宰府に蓄積されていたの累代の財宝や交易品・砂金を奪う必要性が生じたのではないだろうか?

 こうしたことが、純友が大宰府を襲撃した理由として推測されてくるのだ。

 そうして、純友集団は大宰府を襲撃・占拠し累代の財宝・交易品を手に入れ、諸外国の交易集団と交渉していたか、あるいは東アジアに向かって進出する準備をしている最中に、政府軍に追いつかれたのではないだろうか?

 これより、遅くとも天慶四年五月までには、純友集団は博多津へ向かい大宰府周辺に潜入し、その後、大宰府襲撃により累代の財宝を手に入れている。そうして五月二十日の博多津の決戦で、政府軍と壮絶な戦闘が行われ敗北している。

 そうして、六月十一日には、吏部王記などの記載により 「賊二艘、純友等也、響灘より船を捨て脱け逃げる、疑うに入京するか?」との報告があったとある。

 純友は、博多津の決戦で敗北したが、政府軍の追及を響灘(玄海灘につながる長門国の西海上)でかわし、一旦消息を絶つ。

 純友はどこへ向かったのだろうか?

 もちろん、伊予国のどこかへ向かったのだろうが、この段階にきては当然 伊予国も国府を中心として政府の純友包囲網が敷かれているわけであり、瀬戸内海側へは戻れないことは純友自身も容易に理解していただろう。

 ・・・・純友が向かった先とは、豊後水道を通過し宇和海に面する日振島しかなかったものと考えられる。

 そうして、純友は逃亡のために大宰府で奪った何かを所持していたはずだ。 それは逃亡のために携帯性に優れる資金であったはずだ。

 当時大宰府の官庫に蓄えられていたであろう諸外国との交易のために使われていた砂金がその資金となっていたのではないか?

 そうして、純友は 逃亡資金としての砂金を持って日振島とその周辺にもどって・・・いた?

 そうして、日振島には 大宰府に向かう前に乱の最中に奪った各地の財物が隠されている?

「純友追討記」によると、天慶三年八月以降の備讃瀬戸を中心にした海賊活動の中心に純友がおり直接指揮をとっていたと記されている。こうした記述は純友追討記のみに記載されているものであるが、「純友、国府に入り火を放ち焼亡し、公私の財物を取る也」とある。 公私の財物を取る也 とあるのだから、純友集団はそれらをどこかに隠しているはずだ。 その場所こそ、日振島とその周辺ではないのか?

 そうした財物も純友のその後の逃亡のために必要な資金となるはずだ。

 純友は日振島に戻って、再起のための準備を図ろうとしていたのではないか?

 そして、警護使 橘遠保によって純友は発見、最期を迎える。 橘遠保や純友を討った後、宇和荘(現愛媛県南予地方)を与えられたという。

 さて、橘遠保は純友の財宝を見つけられなかったのではないか? 純友の財宝が見つかったという報告は歴史史料上に皆無である。

 おそらく、純友の財宝は永遠に日振島とその周辺にいまも静かに眠りつづけているはずだ。いつか純友がよみがえり、再び巨海へ向かうその日まで。

 次回、藤原純友は宇和荘(現愛媛県南予地方)の日振島に居た? です。

 

純友はなぜ大宰府へ向かったのか? 従五位の下の本当の意味に迫る。

 さて今回から、藤原純友の乱の核心部分である 純友が巨海へ出ようとした理由 についてさらに深く、再検証していきます。

 最終的に藤原純友の乱で、純友集団が向かったのは九州の大宰府ですが、なぜ大宰府に向かったのか?を明確に論証しているのは松原弘宣先生の著書「藤原純友」によってであり、これが現在の純友の乱の核心のスタンダードとなっています。

 そうして純友の目的が、単なる従五位の下という貴族の一員になるためだけの行動ではなく、西瀬戸内海の海民・海賊の生活基盤である海事・海運・交易事業の民間開放、さらに東アジア諸国との交易参入というグローバルな経済改革路線を持っていたことが、さまざまな状況証拠から導き出されるのです。

 例えば一つの状況事例として、天慶三年二月三日に、前年十二月二十一日に政府から伊予国へ派遣された純友の甥(おい)の藤原明方が伊予国解状と純友の申文を持って京に戻ってきている。つまり藤原明方は、純友が伊予国紀淑人の制止のいうことを聞かず「巨海」へ出ようとしている との理由について伊予国衙(こくが)と純友の双方から事情聴取してきたのである。

 そうして、その同日には純友に従五位の下の位記(いき)を与えることが決まり、蜷渕有相(になぶちのありすけ)に託されている。

 つまり、純友はこの件に関して、政府側に何か要求を出したのだ。そうしてその要求に答えるように即座に政府は純友に従五位の下を与えることを決めた。

 この従五位の下という位階は、これを以て上が貴族である。 ということは純友は貴族になることを要求していたのか?

 しかし、純友はこの年の八月以降に反乱を起こすことになる。つまり反政府側に回ったのだ。ということは、貴族になれる従五位の下を要求していたというよりも、それに付随する 何か を求めていて、それが政府に反故にされたから、あるいは実現不可能になったから反政府勢力について決起したと考えることが自然であるはずだ。

 従五位の下に付随する 何か とは何なのだろう?

 そこで注目されるのが、純友の父親であり、壮年で亡くなった 良範(よしのり)の位階である。

 良範の立場は、従五位の下の太宰小弐(実務上大宰府の次官)であったという事実から考えると、純友が従五位の下を与えられたことから、それに付随した太宰小弐つまり大宰府での交易に関する権限もある程度認めることが約束されていたのではないだろうか?

 そうして、その大宰府での権限が認められるということは、東アジア貿易に純友が関与することを意味するであろうし、その流通経路である西瀬戸内海での開運・流通・交易までも関与することができ、おそらくそこからこれらの民間開放を進める突破口が開けてくるものと思われるのだ。

 そして、こうした目的は純友が瀬戸内海諸国の海民・海賊から求められていた要望でもあり、その方針を打ち出したことが、全瀬戸内海の人民からカリスマ的な支持を受ける理由になっていたものと考える。

 こうしたことより、純友は承平六年 日振島での決意表明以来、最初から 大宰府 を目指していた、大宰府をめざして計画的に、用意周到に事を進めてきていたことが伺われるのだ。

 純友は伊予国日振島に来た当初から、大宰府を目指していたものと思われる。

 そうして、純友は天慶三年八月以降、政府に対して反乱を決起して以降、東瀬戸内海の藤原文元を中心とする反乱軍から分かれて、西へ移動してゆき西瀬戸内海側の純友集団を率いて大宰府に向かうことになる。ついに政府と対当して大宰府から東アジア交易集団と交渉し、外国勢力を国内に巻き込んで、政府軍に逆襲する戦略に出たものと思われる。 そうするとそれは、もはや改革ではなく、革命にまで踏み込んだ決起となるだろう。あるいは、大宰府を襲撃したという事実からすると、大宰府に蓄積されている累代の財宝を取引材料として、東シナ海に純友集団を率いて出る準備をしていたのではないだろうか?

続く

 

純友の最期と逃亡先の謎 日振島は聖地

  天慶四年(941年)五月二十日、最期の決戦が博多津であり、この戦いで壊滅的な打撃を受けた純友軍は、その後態勢を整え直すことができず、純友やその部下たちはそれぞれの本拠地に帰らざるをえなかった。

 そうして、六月十一日には、備前・備中・淡路などからの報告が到着し、備前使が「賊 二艘、純友等也、響灘より舟を捨て抜け逃げる、疑うに入京するか」(吏部王記)とある。

 こうした記載により、純友自身がどう考えていたかは知れないが、博多津の敗戦の後、純友が響灘で行方不明となり、そこから京に向かい、京でこの乱の弁明をしようとするのではないか?との憶測が広まったようだ。しかし、この時期にいたっては、この動乱で勝利し朝廷から乱発されている恩賞つまり、要はご褒美(ほうび)を受け取ろうとする者たちの純友らへの追手の追及が激しかったことは容易に想像でき、帰京の道は閉ざされていたことだろう。

 六月二十日、伊予国において純友は伊予国警固使橘遠保(たちばなのとおやす)に射殺された。そうして、七月七日に純友とその子 重太丸 の首が京へ進上されたとある。

 「純友追討記」には純友の最期についてこう描かれている。

 「純友、扁舟に乗り逃げて伊予国に帰る。警固使橘遠保のために捕らえらる。次将等皆国々処々で捕らえらる。純友捕らえられ、その身を禁固され、獄中において死す」

 ところで純友が伊予国に逃げ戻り逮捕された場所については、当時の史料にはどこにも記されておらず、伊予国でもいくつか伝承が残っているがその根拠に乏しい。

 純友は伊予国のいったいどこに向かったのか? そうして 時の律令政府はどうして逮捕した場所、最期の場所を史料に残さなかったのか?

 ここにも、純友の財宝の行方を暗示する鍵が隠されている。

 古代日本において最大の大乱となった純友・将門の東西の乱は、時の朝廷を震撼させ、行き詰る律令国家体制を大きく揺るがした。将門の乱が関東一円内での独立国家樹立であったのに対し、純友の乱は西日本全域に拡大した大乱となり、その収束に政府は莫大な労力を使った。 純友は瀬戸内海の海賊・海民の人心を一手に集めるカリスマ的存在であったことはまぎれもない事実である。しかし、政府にとって、そうしたカリスマ性が純友を瀬戸内海の英雄として人民に神格化され、長く伝承され続けられることは ふたたび瀬戸内海で同じような大乱を起こす第二第三の純友を生むことになる。

 律令政府はこれを心の底から恐れたのだろう。

 そうして 海の英雄 純友が討たれた最期の地は、末永く 聖地化 されて後世に伝承されていくことになるだろう。

 その聖地とはどこか? 純友が承平六年六月 伊予国日振島で巨海へ出る決意表明を海賊・海民に告げた 日振島 こそがその聖地になるのではないか?

 純友は、伊予国の 日振島 へ戻ろうと あるいは戻っていたのではないのか?

 日振島に隠された純友の再起のための財宝を使い、再び律令の世に改革と革命の風を送ろうとして。

 そして時の律令政府は この日振島が再び改革・革命の聖地になることを恐れたのではないか?

 だから、純友を歴史の記録の表舞台から静かに消し去り、改革・革命の聖地としての出発点であった日振島の名前を歴史上に残さなかったのではないだろうか?

 私は思う。 純友の決意を語る日振島こそ 改革・革命の聖地なのだと。

 そして最期に、大きな大きな母なる海は、純友の夢と歴史をつつみこんだ。律令の世が終わり、新たな時代が生まれるその日まで。

次回、純友はなぜ大宰府に向かったのか? 純友の乱の核心に迫っていきます。

 

 

藤原純友の乱終結

 さて、天慶四年五月十九日 征南海賊使小野好古より「賊徒が大宰府内を虜掠(りょりゃく)した旨」との報告が京へ届き、「本朝世紀」天慶四年十一月五日条によると「今年五月二十日、大宰府博多津において~小野好古等がために討散を被る」とあり、五月二十日の博多津の戦いで純友集団は敗退したことがわかっている。そうして六月六日には追捕使(ついぶし)は「賊徒を撃破した旨を報告」している。

 天慶四年の五月に入ると、突如 純友集団は大宰府を襲撃、占領する。そして大宰府にある中国・諸外国の海外交易での累代の財宝を奪い、建物に火を放つ。

 しかしその頃には、すでに純友集団の居所を政府軍はつかんでおり、小野好古の軍勢は陸から、藤原慶幸と大蔵春実の軍勢が海から大宰府に迫っており、五月二十日、博多津の決戦があり、海陸両面から激しい戦闘がくりかえされたのである。

 これにより政府軍が勝利し純友集団は四散し、政府軍に捕獲された船は八百余艘、死傷者は数百人におよんだという。その後、博多津の合戦で壊滅的な打撃を受けた純友集団は、態勢を整えることがならず、純友とその部下たちはそれぞれの本拠地に帰らざるをえなかったものと考えられる。

 六月十一日には、備前・備中・淡路などからの報告が京に着き、備前使が「賊二艘、純友等也、響灘より船を脱け遁げる、疑うに入京するか」と報告(されている。

 しかし、その後六月二十日に「純友討殺さる由の解文」が到着し、七月七日には、純友と子息「重太丸」の首が京に届く。また、佐伯是基、桑原生行、三善文公など純友の配下たちも各地で次々に討たれている。

 純友は伊予国に帰ったところを警護使の橘遠保に逮捕され子の重太丸とともに斬られたという。(獄死したとの史料もある)

 こうして藤原純友の乱は鎮圧されたのだが、時の律令政府は 平将門の乱が意外にも一か月で収束してしまったのに対して、藤原純友の乱の鎮圧には 始まりから終結までにおよそ二年あまりの歳月をかけてしまっていることから、純友の乱が西日本全体を巻き込んだ大きな動乱となったことを物語っており、純友自体が西日本全域に大きなカリスマ性をもつ指導者的立場の人物であったことがわかる。

 その一方で武力弾圧による鎮圧に成功した律令政府であったが、その根本的な瀬戸内海での問題がこれにより解決したわけではなく、その後も何百年にわたって同じ問題をかかえつづけることになる。、そして新しい国家の枠組みができるには、この後、さらに源頼朝の時代がくるまで二百数十年の歳月を待たねばならないのだ。

 その歳月は藤原氏の栄華の陰に人民の苦難と苦悩の繰り返しに満ちた「苦しみ」の歴史が無数に積み重ねられているのだ。

次回、純友の最期と逃亡先の謎です。

 

天慶四年政府軍の反撃と博多津決戦

 天慶三年(940年)八月に純友が決起以降、純友集団は、徐々に西に移動している。安芸・周防国・周防鋳銭司・土佐国幡多郡と、徐々に西に移動して攻勢していることがわかる。しかし、明けて天慶四年(941年)からは政府軍の反撃が始まってくる。

 一月二十一日には伊予国より前山城 掾 藤原三辰の首が京へ届けられた。二月には政府軍が讃岐国の純友軍を撃破しており、そのまま伊予国へ進軍している。つまり二月には東部瀬戸内海地域で海賊の鎮圧が終わり、政府軍の支配下に置き換わっている。

 その後、五月十九日までの三月・四月ごろの純友集団の動きを示す史料が存在しないため、純友の動きが明らかでないが、おそらく三月・四月ごろ 純友集団はおそらく体制を整え直し大宰府に向かう準備をしていたであろう潜伏先の日振島を出て、豊後など西国九州の反政府集団と連合して、大宰府に向かったものと思われる。

 日振島とその周辺は古来、純友の時代から島名が史料に現れ、戦国時代も豊後から大友軍の伊予への侵入の中継基地として名称が現れる。反対に土佐国長曽我部元親による豊臣秀吉の島津氏制圧の命令による九州遠征時、帰国の中継地としても名前が現れている。

 このように日振島は、四国の宇和郡と豊後を結ぶ要所であったようだ。

 こうして、純友集団は、大宰府をめざして進軍した。

 さて、天慶四年五月十九日 征南海賊使小野好古より「賊徒が大宰府内を虜掠(りょりゃく)した旨」との報告が京へ届き、「本朝世紀」天慶四年十一月五日条によると「今年五月二十日、大宰府博多津において~小野好古等がために討散を被る」とあり、五月二十日の博多津の戦いで純友集団は敗退したことがわかっている。そうして六月六日には追捕使(ついぶし)は「賊徒を撃破した旨を報告」している。

 これまでの経過から、天慶三年十二月十九日に土佐国幡多郡を純友集団が襲撃してから、遅くとも天慶四年五月までには、純友軍は博多津へ向かい大宰府を襲撃し、その後、五月二十日の博多津の決戦で敗北したことがわかる。

 純友集団は日振島を出て、九州博多津へ向かい大宰府を襲撃するまでの間、九州北部で一体何をしていたのか?

 ここに純友の乱の本質がありはしないか?

 純友が政府に突き付けた要求は、従五位の下という紙切れの位階をもらって貴族になることが目的ではないということだ。

 本当に貴族になりたいだけならば、すでに従五位の下の位階を受け政府に悦び状まで出した後の、備讃瀬戸での戦闘で政府に反して純友が決起する必要はなかったはずだ。

 純友が決起した背景には、政府が従五位の下とともに付随させた純友の要求を裏切ったことにあるものと思われる。

 本当に純友が悦び状を出した意味は、従五位の下の位階を喜んだのではなく、それに付随していた 純友の本当の要求を 政府が一旦認めたからではないか?

 純友の乱の核心・・・・それは純友の本当の要求は、瀬戸内海開運流通の政府から民間への開放 と 大宰府を通じた中国を中心とする東アジア交易への民間参入にあるものと考えられるのだ。

 この要求が通れば、全瀬戸内海の人民の生活を保障し、海賊活動を抑えることができる。

 ここで、「日本記略」承平六年六月某日条の純友の記事を読む。

 南海賊徒の首藤原純友、党を結び、伊予国日振島に屯集し、千余艘を設け、~ 二千五百人、過を悔いて刑に就く。魁師(かいすい)小野氏彦・紀秋茂、津時成 等 合わせて三十余人、手を束ねて交名(こうみょう)を進め帰降する。

 純友は海賊鎮圧に伊予国に向かって一番最初に手掛けたのが、この日振島を中心とする豊後水道周防灘伊予灘海域での海賊を取り締まることだった。

 しかし、純友はここの海賊と戦闘をすることなく、政治的に海賊たちを説得し、彼らの信頼を取りえたのだ。

 この政治的解決を私は、純友の 瀬戸内海海運流通の自由化と大宰府を通じた東アジア交易への民間参入の日振島での決意表明と考えている。

 海賊や海民などの人民はこう思っただろう。

 純友さまについていけば、「仕事」がもらえる。食べていける。家族とともに 生きていける・・・」と。そう思った理由が純友の決意表明だ。

そして、最終的に純友は政府の裏切りにより決起、日振島決意表明を実行にうつすべく、大宰府に向かい 東アジア貿易集団 との交渉に向かったものと考えている。

 純友は東アジア交易集団と連合し、政府軍を迎え撃ち、逆襲を考えていたのではないか?

 そうして、純友は巨海へ、東アジアへ出ようとしたのではないか?

 私は、純友は古代においていち早く、東アジアとの民間交易参入というグローバリズムを実践しようとした改革の先駆者だったと思っている。

 そうして、それは古代日本における経済構造の革命にもつながってくるはずだったのだが・・・・。

次回、藤原純友の乱 終結 です。

藤原純友の乱、始まる

>純友は決起してしまったのだ。そして純友は政府と対決しながら、当初の目的であった 「巨海」 へと向かい始める。

 さて、天慶三年(940年)六月十八日には、政府で純友暴悪士卒(純友の部下たちを指す)への対策が検討され、同十九日に「純友士卒を追捕」との趣旨の草案が作成される。つまり純友の部下たちを政府は海賊と認定し、全面対決することを決定したのである。 こうした決定がなされた背景で、決定的だったのは 関東で平将門の乱が終結し東西から政府が挟み撃ちになる危機がなくなったことによるのである。

そうして、先に述べたとおり、八月以降 政府軍と純友集団の全面対決が勃発する。史実の流れからいうと藤原純友の乱は、ここからが藤原純友の乱の始まりといわれている。

 純友は、政府が約束を反故にし、長らく純友と苦楽を共にしてきた瀬戸内海の純友の士卒(配下)たちを無差別に弾圧し始めたことに我慢ならなかったのだろう。

 八月十五日前後に賊船四百艘が伊予・讃岐を襲撃。 八月二十八日には、備前・備後の兵船百艘が襲撃される。八月二十九日には紀伊国から海賊の活動が報告されている。

 このように八月に入ると、東部瀬戸内海全域で政府軍と海賊との間で戦闘が繰り広げられるにいたった。そうしてその後、政府軍と海賊は戦闘は徐々に西瀬戸内海側へと移動していくことになる。

 「純友追討記」によると、八月以降の備讃瀬戸を中心にした海賊活動の中心に純友がおり直接指揮をとっていたと記されている。こうした記述は純友追討記のみに記載されているものであるが、「純友、国府に入り火を放ち焼亡し、公私の財物を取る也」とあり、実際に表舞台に躍り出て指揮をとっていたかどうか断定することは難しいが、以後の西瀬戸内海→大宰府への移動経路を考えると、純友が間接的にここで関与していたことは間違いないだろう。

 その後の展開は、東瀬戸内海での戦闘が徐々に西瀬戸内海へと移動していくことになる。十月二十二日に安芸・周防より大宰府追捕使左衛門尉在原相安(ありわらのすけやす)らの兵が賊徒に襲撃を受け敗れた(日本記略)との報告が政府にあり、十一月七日には、周防国より周防鋳銭司(通貨の製造所を指す)が焼かれたと報告される。(日本記略)。十二月十九日には、土佐国より幡多郡(はたぐん)が海賊に襲撃されこれと合戦して多数の死者がでたことが報告される。こうした西瀬戸内海側への移動の過程の中に純友本人がいたと考えられている。

 そうして、翌年の天慶四年一月十五日の「北山抄(ほくざんしょう)」には、「純友のことを決定するために、御前に諸卿を招集した」とあり、この時政府は最終的に純友本人を追討することを決定したようだ。

 そうして、ここで純友集団の動向を見ていくと、興味深いことがわかってくる。

まず、純友集団の活動範囲はは東瀬戸内海側の紀伊・摂津から西の大宰府・日向・土佐幡多郡というふうに瀬戸内海・豊後水道全域に拡大している。

 これより、純友は瀬戸内海・豊後水道全域の海民・海賊を結集させることのできるカリスマ的実力者であったことが推測できるだろう。

 天慶三年八月以前は伊予国より東側の瀬戸内海での活動であったが、以後 西瀬戸内海・豊後水道大宰府というように西へ移動している。

 純友の所在が確実にはわかりにくいが、天慶三年六月の純友士卒追捕の決定以降、同年八月以降の伊予・讃岐・阿波・紀伊での行動と、同年十月以降の安芸・周防・土佐・大宰府という二つの集団に分かれて活動しており、純友は後者の集団とともに移動していたものと考えられる。

 つまり 純友集団の移動コースは豊後・日向へ向かう集団と、備前から播磨、但馬へ向かう集団に分かれているのである。

 こうしたことは、純友集団が畿内より組織形成され伊予へ純友といっしょに行った畿内周辺の中・下級官人出身者の集団と豊後水道を中心にした西瀬戸内海の海賊集団より構成されているものと考えられている。

 そうして最終的に純友が大宰府に向かったことは、西瀬戸内海側の海民・海賊の支持を受ける共同利益が何であったかを暗示していることになる。

 その共同利益こそ、純友巨海へ出んと欲す の、東アジア貿易参入と瀬戸内海流通の民間開放ということなのではないだろうか。

 こうして純友はその配下集団とともに、行動をともにするが、歴史史料上、注目すべき空白の期間が現れる。

 それが、天慶三年十一月七日の周防鋳銭司襲撃・十二月十九日土佐国幡多郡襲撃以降、翌年の天慶四年五月十九日、小野好古の「賊徒が大宰府内を慮略(りょりゃく)した旨」の報告まで乱の関連記事が消えてしまうことである。

 つまり、この約五か月の間の空白の期間、純友とその集団は一体どこにいたのか?どう移動したのか? が問題となるのである。

続く

 

緊迫する情報戦と、瀬戸内海の反乱

ほぼ、同時期に勃発した東西の兵乱。律令政府はまず、風雲急を告げている、平 将門 の乱への対応を急ぐことになる。

そうして平 将門 討伐のための征討軍を坂東へと向かわせる準備を加速させるが、京の背後からは、ザワザワと忍び寄る海賊の気配がヒシヒシと朝廷に感じられたことだろう。背中にゾクリとするような殺気を感じながらのこの時期の夜は貴族たちにとってまさに恐怖の日々であったはずだ。

もちろん、朝廷は瀬戸内海の海賊の反乱の背後に純友がいることは十分承知していただろう。しかし、坂東へ征討軍を向かわせている間に背後から瀬戸内海の海賊襲われたのでは、朝廷はひとたまりもない。そこで、瀬戸内海の海賊を背後から指揮している純友の本心・要求をさぐるべく、政府は純友と交渉を始めることになる。

伊予国から純友を京に召喚(呼び戻して)ほしいとの申請があり、天慶二年十二月二十一日に、政府は純友の甥の藤原明方らを伊予国へ事情聴取のために伊予国衙と純友の両方へ派遣しており、天慶三年二月三日には、明方らが伊予国の解状と純友の申文をもって帰京している。明方はそれぞれの事情を聞いてきたのだ。そして同日の二月三日、純友に授けられる従五位下の位記が蜷淵有相(になぶちありすけ)に託されている。この従五位下の位記とは、これ以上が貴族ということである。つまり純友をこれから貴族の一員として受け入れるということである。

ここで問題になる 伊予国の解状と純友の申文の内容が 藤原純友の乱の核心を語る内容であったことはまちがいない。しかし、その内容を示す原文や史料がまったく残存しておらず、その内容は闇の中に消えたままである。

これが実におしい。この内容を語る原本、もしくは史料が見つかれば 藤原純友の乱の体系を完成させることのできる大きな歴史的発見となるのだが。

さて、翌天慶三年二月四日には、追捕に山陽道に出ている小野好古に進軍を一時停止せよとの命令が下されている。

一旦それ以上前に進むな!と指示していることから、瀬戸内海の海賊鎮圧を止め、一旦静観しろと言っているのだ。こうした決定は、藤原明方の報告によっているものと思われる。

このことは、この段階では まだ純友は律令政府・藤原忠平に対し明確な叛乱をするという意思は持っておらず、その一方 律令政府・藤原忠平側も純友に対して軍事的な対抗をしようとはしていなかったことを物語っている。

しかしその一方で、翌天慶三年二月五日には、淡路国より賊徒が襲撃し兵器が奪われた との趣旨の報告が政府に到着していることや、二十二日には 小野好古から「純友、船に乗り、海に浮かび槽上す」と報告が来ていることより、瀬戸内海の海賊の反乱がふたたび散見されるようになり、純友の行動にも不確定な動きが出ている。こうしたことから純友が全瀬戸内海の海賊を統括して政府の恐怖心理をジリジリと揺さぶっている様子が推測される。

ところが、東の将門の乱は意外なほどあっけなく終わりを告げることとなった。 政府側には、二月二十五日 東国の 平将門 が藤原秀郷(ふじわらのひでさと)・平貞盛らによって二月十四日北山の決戦で将門が壮絶な最期を遂げたとの報告が入ってきたのだ。東西の兵乱はここが大きな分岐点となってしまう。将門戦死により、東西の兵乱による国家的危機は乗り切れたということがいえよう。

一方、三月二日になると、純友のもとに派遣していた蜷淵有相より 純友が喜んで位記を受け取ったとの報告と伊予国の解文が政府に到着し、純友に対する処置はここで一旦収まった形になっているのだが・・・。 はたして純友は、この従五位下の位記を本当に喜んだのだろうか?

ところが、三月四日になると政府のほうから追捕南海凶賊使の任命が行われ将門討伐の知らせに東の乱の終結を機会に西に兵力を持ってこれるようになった政府はにわかに西の乱の鎮圧に意欲を出してくる。六月十八日には、殿上で純友の暴悪な士卒(配下)の追捕のことが議定され、純友の士卒を追捕すべしという官符が発せられた(貞信公記抄)

そうするとこの政府の対応は、純友への懐柔策と反対の対応となっている。

二月に純友に位階を与えて以降、四月十日に山陽道(兵庫から下関あたりまでの瀬戸内海沿岸)(追捕凶賊使小野好古)で凶賊が発生したという疑いの報告が政府に到着程度の小規模な騒動はあるものの瀬戸内海での海賊の反乱は一応沈静化している。少なくとも史料上にはこれといった大規模な反乱の動きは見当たらない。

六月十八日の追捕の官符は直接純友を目標とせず、純友士卒の追捕令になっている。

つまりこの時点では、純友はまだ政府側の人間であるということがわかるのだ。

だが、ここで福田豊彦氏は重大な指摘を残している。

政府が純友の士卒(配下)に追捕令を出したらならば、純友はだまっていないと予想されるということがそうだ。

ということは、この段階にきて政府は、純友に対し、政府につくのか?海賊側につくのか? その踏絵をつきつけ、回答を迫ったということになると述べられているのだ。

政府は、平将門の乱が終結し政府軍有利になったこの段階において、純友が政府側につくものと考えていたのだろう。

しかし、純友は決起してしまったのだ。

それは純友が配下を思いやるやさしさからくるものなのか? 純友は無謀とも思える賭けに自らの運命をゆだねてしまう。

純友は本朝世紀天慶二年十二月二十一日条の「純友、髄兵を率い巨海へ出んと欲す」の記載どおり、いよいよ巨海へと向かい始めるのだ。

続く