純友の乱の核心、「純友 巨海へ出んと欲す」
さて純友が伊予国日振島で、豊後水道や宇和海の海賊・海民を集めての決意表明・政策演説をした後、約3年歴史史料上から大規模な海賊活動の記録が消えています。
そうして、3年後の天慶2年(939年)突如 伊予国である騒動が起き、伊予国より政府に報告が入ります。
その騒動とは、「藤原純友が髄兵を率いて巨海へ出ようとして国が騒然としている。伊予国守 紀淑人が制止しようとしても純友はいうことをきかない。早急に純友を京へ召し上げて(召還して)ほしい。」という報告です。
純友が突如として何かの行動を起こし始めていたことがこの報告からわかります。そうして純友を京へ召し上げる(召還)する という記述から 追討 ではなく京へ呼び戻して、まあ説き伏せなさいという意味のようで、ここではまだ政府への敵対という意味合いにはなっていないようです。
ここで問題となるのは 巨海とはどこか? ということと なぜ巨海へ出ようとしたのか?の二点です。
この行動は 本朝世紀天慶二年十二月二十一日条の「純友、髄兵を率い巨海へ出んと欲す」にも記載されており、その行動が非常に問題視されていることがわかります。
歴史学会上では、この 巨海 が常識的に考えて 東シナ海 と考えられており、どうやら純友が中国や朝鮮との交易に参入しようとしているものと推測しています。
当時、中国など東アジアの交易は東シナ海を経由して日本の朝廷のみの独占交易が行われており、交易品の物流は東シナ海・大宰府を通して、瀬戸内海を経由し京都につながっており、この交易を政府が独占することで、朝廷は莫大な利益をあげていました。
ということは、政府の独占によって瀬戸内海の物流もまた政府が全支配権を握り、政府のみが利益を独占する方向で進められていたものと思います。
しかしこのような独占がすすめば当然のことながら、瀬戸内海の海事や流通を行う人民にとってその生活圏や仕事の確保が脅かされることになり、こうしたことが全瀬戸内海の海民や海賊の猛反発を買う原因や勢力争いになっていったのではないでしょうか。
また、当時は東アジアとの間で公式な交易の他にも、当然のことながら膨大な密貿易も頻繁に行われていたようで、こうした流通も瀬戸内海で増大しているようで、当然政府との間でその勢力争いが激しくなってくる。
こうした事情により、誰かが、政府と全瀬戸内海の海民・海賊たちとの間に立って、全瀬戸内海の流通の取りまとめをしなければならなくなる状況が生まれてきていたのではないでしょうか?
そして、政府の全瀬戸内海の物流の独占支配と搾取政策が続くことにより、この独占政策を変えていかなければ、瀬戸内海の海賊活動や抵抗が収められなくなる。おそらく純友が政府の方針に反してまで巨海へ出なければならなくなったのは、瀬戸内海の治安を守るのにその限界が近くなり、東アジア交易への民間参入など、何らかの行動に出て政府の方針を改革させざるを得ない状況になっていたのではないかと思います。
こうしたことが、純友を巨海への進出の行動に移させた背景として考えられると思われるのです。
政府の独占貿易の一端を崩し、全瀬戸内海の人民たちに生活や仕事の場を分け与えることが、瀬戸内海の海賊活動や政府との対立を解決していく政策として必要だったのではないでしょうか?
しかしここで、純友が巨海に出るということは、政府の独占交易の政策に反する行動ということになり、伊予国で政府側の最高責任者である 守 の紀淑人との間で政策的な相違が出たため伊予国で騒動になったものと思われます。ただ、紀淑人とはあくまでも政策の相違という中での問題であり、対立ではなかったようで、それはこれ以後も純友が明確に政府に敵対する状況になるぎりぎりまで、紀淑人は純友をかばい続けていたことからも推測でき、こうしたことから貴族社会の栄華を続けようとして行き詰る律令政府の国策への矛盾に対する改革への意思が、純友の行動の根本にあるように思えます。
純友は、長らく反逆者の汚名を着せられてきましたが、近年 こうした改革の先駆者だったのではないか?との見方が強まってきており、先の本朝世紀にあるような 巨海に出んと欲す の記事が藤原純友の乱の本当の目的であったということが認識されつつあります。
いずれにしても、純友はこの後、巨海への進出をめざして政府と交渉を行っていくことになります。そうした過程で、純友は 瀬戸内海の乱 と 偶然勃発した 東国(坂東)の 平将門の乱 を利用し息詰まる政局で律令政府を追い詰めていくことになります。
この後、純友が大宰府にまで向かう動きを見ていくと、この純友の計画はおそらく日振島での決意表明以来、非常に用意周到に計画されていたものとして解釈され、単なる感情的な行動とは全く異なり、純友の明確な国家政策を実行に移すための戦略性を持っており、純友が古代における官僚としてとびぬけた資質と実行力を持った人物であったことが伺えるようになります。
そうして次章では、まず 純友が巨海に出ると宣言した後、間を置かず勃発した 摂津須岐駅襲撃事件から天慶の乱にいたるまでの政局についてお話します。